こんな日本語はありませんよ
戦時下、兵役していたある国語学者が所属部隊の統率方針を読んで、「こんな日本語はありませんよ」と部隊長に直接訴えかけたそうです。
当時としては珍しいエピソードで、その記録は軍部に今も残っているといいます。
部隊に掲げられていた統率方針、そこに書かれていたのは「積極的任務の遂行」という文だったのですが、学者は「これではだめだ、(任務の積極的遂行)とすべきです」と進言したのです。
その才気に感じて、以後、部隊長はその学者に目をかけ、前線送りから除外したため、「命拾いをした」と学者は後に語っているんですね。
〇(任務の積極的遂行)という言い方が正しくて、✖「積極的任務の遂行」という文はなぜ日本語として通用しないのでしょうか。
少しわかりやすくするため、他の例文を用いて解説したいと思います。
たとえば、シューベルトの曲が訳詞の標題にされた✖「美しい水車小屋の娘」というタイトルの連体修飾節があります。
これは直訳的翻訳なので、やはり✖「積極的任務の遂行」と同じく日本語としては不自然な表現と言えるんですね。
訳詞の担当者が伝えなければなかった意味合いは、おそらく、〇「水車小屋にいる(美しい娘)」という内容であるべきだと思われるのですが、この書き方では文法的に✖「(美しい水車小屋)の娘」という表現で書いてしまっていることになってしまうのです。
シューベルトが伝えたい主旨は当然、〇「水車小屋の(美しい娘)」なのであって、✖「美しい水車小屋」であるはずがないのです。
✖「積極的任務の遂行」も同じことで、✖「(積極的任務)の遂行」という意味合いになり「積極的任務」なんていう日本語はありえません。
一見複雑な感じがしますが、この間違いを見抜くことは実は簡単なことで、助詞「の」に注目すればいいだけのことなんですね。
強力な支配力
体言と体言をつなぎ合わせるのが助詞「の」が持つ文法的役割です。
「が」「を」「に」「と」「へ」といった他の格助詞たちは全て連用助詞として述語である用言に係っていくのですが、「の」だけは用言ではなくもう一方の体言へと係っていくんですね。
圭介の歌 裕子のピアノ ヒロシのドラム 胸騒ぎの腰つき 秘密のメロディ
たとえば「裕子のピアノ」の場合、「裕子」が連体素材と呼ばれ、「ピアノ」は後続素材と呼ばれています。
連体素材「裕子」は「の」と一体となって後続素材である「ピアノ」を強力に取り込むごとくにして支配するんです。
この「の」の働きは「連体展叙」と呼ばれるものですが、その関係構成力の強さは他の助詞にみることはできないものとなっているんですね。
連体展叙の場合、強調されるのは前の部分、連体素材になります。
圭介の歌 裕子のピアノ 秘密のメロディ
「歌」「ピアノ」ではなくて、圭介の、裕子の、が強く主張されるんです。
そう前から後ろへと、強く取り込んでいくイメージですね。
たとえば実際に「本」や「自転車」という後続素材が現れなくても、「それは、僕の」(*僕の物だよの意味)という言い方が一般的に通用するように、変わることなく「の」の展叙が働くことがその関係構成力の強靭さを証明しています。
ですが、強力な接着剤ともいえるその「の」の特性は、裏を返せば、連体素材「裕子」と後続素材「ピアノ」が「の」を境に強烈な切れ目を本来は持っているということがわかるんです。
「綺麗な裕子の ピアノ」と書かれている場合は、綺麗なのは裕子なのであり、「裕子の 綺麗なピアノ」の場合は、綺麗なのはピアノなんだと、「の」を境界線として迷うことなく判断することができるんですね。
そう、この「の」が引く境界線としての強力な役割を理解していれば、少なくとも、裕子が所有する「綺麗なピアノ」という意味合いを伝えたいとき、✖「綺麗な裕子のピアノ」とあなたが書いてしまうことは、まずありえないでしょう。