こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

繰り返しをさけることで複文はリズム感をもって流れ出す

中立法

文章を構成している一つひとつの「文(センテンス)」。

句点「。」から句点「。」までの単位を「文」とするなら、主語と述語が一つずつしかないという単純なものはほとんど見られません。

複数の主語と述語が組み合わさって、複雑な「複文」として書かれているのが普通ではないでしょうか。

 

そして、その「複文」のなかでも最もよく使用されているのが、いわゆる「中立法」と呼ばれるものです。

中立法には2種類あって、まず一つ目が、次の例文に見られるような動詞の連用形です。これを「~し」形としましょう。

空はひび割、太陽は燃え尽、月は砕け散っても。

もう一つの形態が「て」形です。ここでは「~して」形と呼んでいきます。

黒板の前に立っ、生徒たちに問いかけた。

「~し」形と「~して」形、極論を言うなら、中立法を使えばどこまでも文を続けていけることができるのです。

ただ、中立法で区切られた前の動詞は、独自のテンスもムードも示すことはできません。後続の最後の動詞と同化します。

日本語の「文」というのは、基本的に文末「。」で終わる終止形でしか、テンス(時制)もムード(判断)も決めることは出来ないんです。

そう、文というのは、最後に書かれた言葉で全ては決定していくのです。

だから書き手は「文」の最後に書く表現に最も意識を集中させていかなくてはならないのでしょう。

そう考えると、後続の動詞が命令形なら、中立法もそれに逆応して命令の意味になるのがわかります。

会社へ戻っ、報告してこい。

この例では、「会社へ戻って」は「会社へ戻れ」という意味になり、最後の終止形に同化していくんですね。

そして、この逆応と表裏を成す現象として、中立法が主語や補語の通過を許すことがわかるんです。

裕子に会っ、本当の思いを伝えよう。

補語「裕子に」は、「会って」だけに係るのではなく、最後の「伝えよう」にも係っていく射程距離を持ちあわせているんですね。

裕子に(本当の想いを)伝えよう。

この補語「に」格が「通り抜け」ていく現象こそが中立法の持つ本質です。書き手にとっては、まったく無意識といってもいいでしょう。

海岸のゴミをみんなで拾っ、持ち帰る。それが、私たちの・・・

「持ち帰る」のはゴミにきまっているので、いちいち「ゴミを」とか「それを」とか繰り返さないのが日本語の特徴なんです。

通り抜け

さらに、この中立法がよく使われるのが「料理文」です。

料理文では、対格補語であるひとつの「を」格が複数の動詞に係っていきます。

豆腐を6等分にし、レンジで加熱できる器に入れます。

「豆腐を」 ― 「6等分にする」「器に入れる」。

補語の「通り抜け」は、複文を滑らかに表現させる効果を持っていますので、その結果、文章全体をリズミカルに進行させていくことになるんですね。

では、なぜ流れるように展開していくのかというと、それは繰り返しを避けることで、贅肉をそぎ落とした表現だけで文意が走り出していくからです。

ですが、省略したことによって、読み手に書き手の真意が伝わらなくなってしまっては本末転倒です。

読み手の読解を損ねることなく、ギリギリまで切り詰めた表現でテキストを展開させていく。補語の「通り抜け」はそれを実現するためのひとつの促進力になることは間違いありません。

中立法を使って文を書く場合、主語・補語が「通り抜け」ているのかどうかを意識し区分することで、文章の流れる速度は間違いなく変わっていくことになります。

意識し区分するとはどういうことかというと、実は、世に出ているテキストには「通り抜け」ていない中立法で書かれたセンテンスのほうが圧倒的に多いんですね。

器を傾け水分を捨、長さ1センチに切ったミツバをのせます。

ここでは、「器を」のあとに「水分を」が出てくるので、「器を捨て」という意味にはなりません。ましてや「器をのせます」と最後までつながるなんてことはありえないんです。

「に」格なら「に」格、「を」格なら次の「を」格、といったように新しい補語が出たきた場合は、先の補語が通らなくなるんですね。

補語が重なっている前半は、モゴモゴと、なにか言葉の流れが停留してるような感じがします。

そして、補語よりも中立法が最もよく実現するのが、「が」格という主語になります。そしてこの性質に反する用法として、主語の無断交代がよく出てくるんです。

近くに住む裕子が訪ねてき、「どうしよう」と相談を受けた。

後半の「相談を受けた人」は「裕子」になるはずなのに、そうではなく、話し手である「私」です。

この影の主語である「私が」が無断でまかり出る場合が非常に多いんです。

彼女が家を出て行ってしまっ、僕は途方に暮れた。

というように、「僕は(が)」という主語がはっきりと明示されていればまだ分かりやすいのですが、新しい主語が出てきているのに省略され表現されていると、ときに文意が読み取れなくなってしまうんです。