物事を具体的に、直接的に表現する働きをそなえた副詞を、文法用語で擬音詞(オノマトペ)と呼びます。
円顔といえば「ふっくら」、血が垂れるといえば「ぽたぽた」で、鶏といえば「コケコッコー」といった感じでしょうか。
オノマトペを使った副詞表現は、動詞の内容をより具体的にし、読み手の感覚に直に訴える効果をもたらすんですね。
日本語の動詞は単独で用いると意味を訴える力が弱いのだとよく言われます。
そのため、書き手はオノマトペや複合動詞を使って重石を付けることで、無意識に、文の結尾をぴしゃりと完結させようとします。
たとえば、「歩く」という動詞が単独で弱いと感じたら、「捜し歩く」「渡り歩く」「さまよい歩く」と複合動詞で書くか、「いそいそ歩く」「ずんずん歩く」「すたすた歩く」というようにオノマトペを使うことで「歩く」を補強するんです。
では、なぜ日本語の動詞は単独で用いられると弱いのかというと、それは日本語の構文では動詞が一番最後にくるという仕組みになっているところに理由があるんです。
構文全体で意味を拡げるだけ拡げていく、あるいは意味をつぎつぎに限定させていく、といったように様々な意味の盛られた文を、最後の最後に動詞はまとめ上げなくてはなりません。
風呂敷で四隅を最後にぎゅっと締め上げるように、動詞もまた、文を完結させ、意味をきちんと荷造りしてやらねければならないのです。
だから、動詞一個だけではその力が足りないということも生じるわけなんですね。

二葉亭四迷の「平凡」という小説のなかに、このオノマトペがここぞという個所に配置されている臨場感に溢れる描写があります。
今まで読んだことのないようなスピード感がある見事な描写で書かれていて、段落の最後に急に視点が変わるという不思議な文章でもあるんです。
子供たちの下校の様子
ジャンジャンと放課の鐘がなる。今迄静かだった校舎内が俄に騒がしくなって、彼方此方の教室の戸が前後慌ただしくパッパッと開く。と、その狭い口から、物の真黒な塊がドッと廊下へ吐出され、崩れてばらばらの子供になり、我勝ちに玄関脇の昇降口をめがけて駆出しながら、口々になんだか喚く。只もう校舎を揺すってワ―ァという声の中に、無数の円い顔が黙って大きな口を開いて躍っているようで、何を喚いているのかわからない。で、それが一旦昇降口へ吸込まれて、此処で又ごたごたと入乱れ重なり合って、腋の下から才槌頭が偶然と出たり、外歯へ肱がぶつかったり、靴の踵があいにくと霜焼の足を踏んだりして、上を下へとこね返した揚句に、ワッと門外へ押出して、東西へ散々になる。
仲善二人肩へ手を掛合って行く前に、弁当箱をポンと放り投げてはチョイと受けて行く頑童がある。其隣は往来の石ころを蹴とばし蹴とばし行く。誰だか、後刻で遊びに行くよと、喚く。イナゴを取りに行かないか、という声もする。君々と呼ぶ背後で、馬鹿野郎と誰かが誰かを罵る。あ、痛たッ、何でい、わ―い、という声が、がやがやと入違って、友達は皆道草を喰っている中を、私一人は駆抜けるようにして脇見もせずに切々と帰って来る。
最初の段落では子供たちが集合的に描かれていますが、第2段落では子供たちは個として描かれています。
それに伴い文章のスピードも少し減速していき、最後に「私一人は駆抜けるようにして脇見もせずに切々と帰って来る」という個性的な「私」が登場して、視点が変わることで急ブレーキが踏まれたような感じがするんですね。
やはり「友達は」「私は」という「は」を伴う主題が出てくると、突然に、文章のその流れは止まってしまう気がします。
テキスト全体を見てみると、オノマトペの効果によってスピード感が出ているのとともに、文末がすべて「る」形の現在形で括られているのが読み取れます。
そう、完了形の「た」形は一切使われていないんですね。
文字通り、完了形を使うとそこで文は一旦区切られ連続性を失ってしまうので、ここでは「た」形はでてこないんです。
個々のセンテンスを自然につなげていくように表現しようとするなら、やはり、「る」形の現在形で文章を構成することが必要になってくるのでしょう。
さらに、「吸い込まれて、重なり合って」「出たり、ぶつかったり、踏んだりして」といったようにパラレリズムを使って繰り返し表現で書かれていることで、リズム感を伴ってスピード感が出るという効果をもたらしているのがわかります。
そして極めつけは、補語が中立法をすり抜けているところです。中立法は「~して」形や連用形を使って複文を構成するんです。
まず、
「今迄静かだった校舎内が俄(にわか)に騒がしくなって、彼方此方の教室の戸が前後慌ただしくパッパッと開く。」
という文では、「俄に騒がしくなって、(俄に)~慌ただしくパッパッと開く」といったように「俄に」が「騒がしくなって」という中立法をすり抜けて「慌ただしくパッパッと開く」という述語にまでとどいているのがわかります。
補語「に」格は二つの述語を射程距離に収めているんです。
本来なら、一つの補語は一つの述語で収まるはずなのに、中立法をすり抜けた補語は幾つもの述語を突き抜けていく。
それによってセンテンスは駆け抜けるようなスピード感を醸し出すに違いありません。
なにしろ、文法の公理を突き抜けていくんですから。
つづいて、
「その狭い口から、物の真黒な塊がドッと廊下へ吐出され、崩れてばらばらの子供になり、我勝ちに玄関脇の昇降口をめがけて駆出しながら、口々になんだか喚く。」
という文では、「真黒な塊が」という「が」格の補語が「真黒な塊が吐出され、~子供になり、~駆出しながら、~口々になんだか喚く。」と、なんと3回もすり抜けているのがわかります。
さらに、「真黒な塊が」という補語は「それが」という表現に置き換えられ、第1段落全体の主格補語として影響をおよぼしているのが読み取れるんですね。
ジャンジャンと放課の鐘がなる。今迄静かだった校舎内が俄に騒がしくなって、彼方此方の教室の戸が前後慌ただしくパッパッと開く。
と、その狭い口から、物の真黒な塊がドッと廊下へ吐出され、崩れてばらばらの子供になり、我勝ちに玄関脇の昇降口をめがけて駆出しながら、口々になんだか喚く。
只もう校舎を揺すってワ―ァという声の中に、無数の円い顔が黙って大きな口を開いて躍っているようで、何を喚いているのかわからない。
で、それが一旦昇降口へ吸込まれて、此処で又ごたごたと入乱れ重なり合って、腋の下から才槌頭が偶然と出たり、外歯へ肱がぶつかったり、靴の踵があいにくと霜焼の足を踏んだりして、上を下へとこね返した揚句に、ワッと門外へ押出して、東西へ散々になる。
よって、このテキストが尋常ではないレベルのスピードで描写されている理由として、少なくとも下記の4つは確認することが出来ると思います。
①絶妙なオノマトペの配置
②完了形の「た」形ではなく、すべての文末に「る」形という現在形を使用している
③パラレリズムを駆使した巧みなリズム感
④補語がすり抜ける中立法を使った複文構成で主に表現されている