膠着語
日本語におけるコトバとコトバとの関係を示す方法。それは、助詞や助動詞を使ってつなげていくという手段です。
いわゆる膠着語(こうちゃくご)と呼ばれるもので、文字どおり膠(にかわ)を使うようにペタペタと言葉をつなげていくやり方なんですね。
その膠の役目を果たすのが助詞や助動詞であり、日本語の性格を決定する重大な品詞だと言われているんです。
助動詞のほうは、(う・よう・まい)といったように述語の最後に付き、補助的役割をします。
これはこれで陳述を提示する大切な品詞なのですが、助詞の方はもっと重要で、文章全体の構造を支配する極めて重大な役割を持つんです。
助詞は膠着語の統語法の根幹をなす品詞であり、日本語を正確に使いこなせるかどうかは、この助詞を使いこなせるかどうかにかかっていると言ってもいいんです。
まず思いつくのが格助詞と呼ばれる助詞で、(が・を・に・まで・から)といった語で名詞に付いて、述語につなげていく膠の役割をします。
Ⓐ圭介がコンサートでアッコの曲を歌った。という例文で見てみましょう。
圭介が歌った。
コンサートで歌った。
アッコの曲を歌った。
というように、(が・で・を)という格助詞が「歌った」という述語に言葉をつなげる役割を果たしているのがわかります。
これが格助詞の職能ですが、実は、この例文の単語のなかに一つだけ異質なものが混じっています。
それは「アッコ」という要素です。「アッコの歌った」という文は日本語として不自然であり、あくまで、この「アッコの」についてる「の」という助詞は述語につながっていくのではなく、「アッコの曲」といったように、「アッコ」と「曲」、「体言(名詞)」と「体言(名詞)」をつなげる職能を持ちます。
この体言動詞をつなぐ「の」という助詞は連体助詞と呼ばれ、その膠の粘着力は強力なものを持っているんです。
そして名詞の連続する日本語にあっては、使用頻度の最も高い助詞となっているんですね。
たとえば、和歌で見てみても、
Ⓑ行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上のなる一片の雲
Ⓒ石激る垂水の上のさ蕨の萌え出ずる春になりにけるかも
といったように、「の」で連ねていくことで美しいリズムを奏で、読み手の脳内に映像を生み出していきます。
「の」という助詞が強力な粘着力を持つというのはどういうことなのかというと、「先行素材の名詞が後方素材の名詞を強く取り込む」というイメージで捉えてもらえればわかりやすいのかも知れません。
例として、「ヒロシのドラム」という連体節で見るとすると、「ヒロシの」が「ドラム」を強く引き寄せるということです。
他の誰のものでもない「ヒロシのドラム」そう、そのドラムはヒロシのものだという強調です。
身近な例で言うと、子供が自分のおもちゃを自分のモノだと主張するときに、「それ、僕の」という言い方をよくすることがあります。
「僕のおもちゃ」「僕のもの」とワザワザ言わなくても充分に表現が通じることが、連体助詞「の」の後続素材を取り込むが如くに支配する力を証明しているんです。
断層
「の」の後の名詞が強く取り込まれるということは、言い換えれば、「の」の前と後に大きな断層ができるということです。
たとえば、「美しい水車小屋の娘」という連体節で見てみると、この表現はものすごく曖昧な表現のように感じます。
「美しい」という対象が「水車小屋」なのか、「娘」なのか読み手はすぐに判断できないからです。
普通の表現で考えれば「美しい」のは娘のはずなのに、「美しい水車小屋」と「娘」の間に「の」が存在するので読み手は大きな断層(区切り)を感じとってしまうのです。

他にも、新聞の見出しにあった例で見ますと、「野蛮な文明の敵」というのがあります。
これでは「(野蛮な文明)の(敵)」という意味になってしまい、(野蛮な文明)って何のこと?と思ってしまいます。
公害や原子力発電のことなのかと理解しようとしても、やはり何か変な表現です。
おそらく書き手は「野蛮な(文明の敵)」と伝えたかったのでしょう。ですが()内に「の」があると不自然になってしまい読み手はそのように読み取ってはくれないんです。
では、どうすればいいか。「(文明)の(野蛮な敵)」とすれば誤解される恐れはありません。「の」が綺麗に区切ってくれるからです。
全く同様に次の例はどうでしょう。
「危険な政府の権威主義」(危険な政府)?
もはや、説明は要りませんね。正しくは、「(政府)の(危険な権威主義)」です。
大きな区切りのチカラが連体助詞「の」にあることを意識できていれば、あいまいな表現を避けることができるのです。