こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

述語が構成素を統叙することができない日本語文は存在するのか 

前にある構成素を述語がまとめ上げるという日本語の仕組み。それは、「述語の統叙」と呼ばれています。

Ⓐその途端、裕子は、はっきりと男の顔を思い出した。という例文の場合、

その途端  思い出した

裕子は   思い出した

はっきりと 思い出した

男の顔を  思い出した

というように、述語「思い出した」が最後にまとめ上げているのが見て取れます。

ところが、次のように、「辞書のレベルでは決定しきれない動詞の格支配」と、文法学者が声をそろえる例外文が日本語には存在するんですね。

Ⓑ鯛を(刺身に作る)。  鯛を作る?

Ⓒ一人娘を(嫁に取る)。 一人娘を取る?

Ⓓ鉛を(金に変える)。  鉛を変える?

これらの文では、ガ格・ヲ格・二格がそれぞれ同じように動詞述語と結びいているわけではないんです。

ヲ格と動詞の結びつきは間接的なんですね。

二格と動詞がまず結びつき、その全体に対してヲ格が結びついています。ヲ格の存在は二格の存在を前提にしているんです。

これは、どういうことなのでしょうか。「述語の統叙」に例外はありえないはずです。

なぜ、こういう文が成り立つのか、あらゆる文法書で調べたのですが、なかなか答えは見つかりませんでした。

そして、やっと探しあてたのが、三原健一 著「構造から見る日本語文法」という一冊です。

三原氏はこの著書のなかで、ⒷⒸⒹの例文と同じように、ヲ格が述語に直接つながらない同じような例を取り上げています。

Ⓔ私は局長の行動を(不審に思った)。 行動を思った?

Ⓕ設計者は白砂を(川に見立てて)庭を作った。 白砂を見立てて?

やはり、どれも、「何に」という説明がなければ、ヲ格は述語につながることができません。

結論から先に言いますと、ヲ格が述語に直接つながらない理由を、三原氏は、例文のヲ格はすべて格助詞「ヲ」の機能をはたしているのではなく、「提示機能」をそなえた取り立て、つまり、主題提示の機能をはたしているのだと説いています。

主題提示の機能をもつのであれば、提示方法は名詞そのものの投げ出し提示か、「は」「も」といった係助詞・副助詞を使って提示されることになります。

「私は局長の行動、(どう思ったかというと)不審に思った」

「白砂は、(どうしたかというと)川に見立てた」

つまり、例文のヲ格は格助詞ではなく提示機能なのだから、「白砂は」の答えは「川に見立てた」という固まりに直接つながるために、「白砂は」という文節は「見立てる」にはつながらないという分析なんです。

さらに、三原氏はこういった構文の現象は、動詞が認識動詞の場合にのみ、現れるのだと限定しているんです。

認識動詞というのは、「思う」「考える」「感じる」「見立てる」といった頭のなかで一度考える(認識する)といった思考動詞のことらしいのです。

三原氏によると、ⒺⒻにみられる例文のような構文は「認識動詞構文」なのだということなんですね。

ですが、先の例文で見た、Ⓑ鯛を(刺身に作る)。Ⓒ一人娘を(嫁に取る)。 

といった「作る」「取る」という動詞は「動作動詞」なのに、同じようにヲ格は述語に直接つながりません。つまり、「認識動詞構文」限定ではないということになります。

ここに私は少しモヤモヤを感じたのですが、さらに、よく考えてみると、決定的な疑問が一つ残っているのです。

まず、一番最初の例文を、もう一度見てもらいたいと思います。

Ⓐその途端、裕子は、はっきりと男の顔を思い出した。

Ⓐの文は「思い出す」という「認識動詞構文」なのですが、「裕子は」という提示主題は「思い出した」という述語に綺麗につながっています。

「提示機能」を持っていようがなかろうが、構成素と述語は構文的にスムーズにつながっていなければおかしいのです。

「私は局長の行動、思った」「白砂は、見立てた」と、いえない理由とはできないのではないでしょうか。

そして、ここから先の理論は私自身の勝手な見解なのですが、「ヲ」の深層にあるのは提示機能ではなく、連体助詞「ノ」ではないかと思うんです。

「(鯛ノ刺身)に作る」「(一人娘ノ嫁)にとる」「(鉛ノ金)に変える」

「私は局長の(行動ノ不審さ)に思った」「設計者は(白砂ノ川)に見立てて庭を作った」

構成的には、「鯛を(刺身に作る)」ではなく、「(鯛を刺身)に作る」という構成になっているのではないか。

切り離せないのは(刺身に作る)ではなくて、(鯛を刺身に)のほうなのではないでしょうか。

また同じ例文を参考にしますが、

Ⓐその途端、裕子は、はっきりと【男の】顔を思い出した。

という文のなかでは、述語「思い出した」に直接つながらないのは「男の」という連体修飾語だけなんです。

「男の思い出した」とは言えません。連体修飾語は構文成分ではなく、構句成分と考えられています。

連体修飾語が文の中で機能するときには、必ず、他の文の成分の一部となって機能することになるんです。

つまり、例文でいえば「顔」という主名詞によって、一旦、中継されなければならないんですね。

だから、思うに、「鯛を」「一人娘を」「鉛を」という文節の深層に意義的内容として存在しているのは構句成分ではないのかという考えなんです。

「鯛を」は「刺身」という主名詞の連体修飾語なので、「作る」には直接つながることができない。

「鯛の刺身」という連体修飾句が「作る」という述語につながっているとすれば、全ての理屈は納得いくわけなんです。

連体助詞「ノ」が持つ関係構成力は強く、「鯛ノ刺身」でいえば、上にある名詞「鯛」と下にある名詞「刺身」を「ノ」が結びつける力というのは、これはもう、そうとうなものなんだといわれているんですね。

それゆえに、「鯛のが」「鯛のを」はもちろん、「鯛のは」「鯛のも」ですらいえないように、「ノ」の下に何物も下接することを許さないのです。

連体助詞「ノ」の職能は、関係構成力のその強力さゆえに、次のような表現すらも可能にします。

「色が白い花」→「色の白い花」

「切符を切らない方は・・」→「切符の切らない方は・・」

このように「ノ」が「主格連用」や「対格連用」にも用いられるのは、「ノ」が持つ超理論性によるものなんです。

「対格連用」で示されている表現に連体助詞の職能が隠されているという今回の見解は、論理的には逆の発想になります。

ですが、「逆も、また真なり」という意義的解釈で捉えてもらえるなら、こんな発想でも、文法学のひとつとして意外に面白いと感じて頂けるのかもしれません。