言葉の響きと文章の調
文章読本としては異例のロングセラーとなった「日本語の作文技術」。
著者である本多勝一氏はその本文のなかで、文章表現における巧みなリズム感の必要性を強く説かれています。
本多氏によると、人は本を読むとき目で活字を追いながら無意識にリズムを感じ取っているのだといいます。
だからリズムの無茶苦茶な文章は、読者を無意識的にイライラさせ、長時間の読書を耐え難くさせてしまう原因となってしまうのです。
また、谷崎潤一郎や川端康成といったいわゆる文豪と呼ばれる小説家たちが書き下ろした「文章読本」の類でも、このリズムとか調子に対する考察が大きな比重をかけて説かれているんですね。
とくに、川端康成のリズム調へのこだわりには並々ならぬものが感じられ、その思想に非常に興味深く引き付けられます。
少年時代、私は「源氏物語」や「枕草子」を読んだことがある。手当たり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味は分かりはしなかった。ただ、言葉の響きや文章の調を読んでいたのである。
それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘いこんでくれたのだった。つまり、意味のない歌を歌っていたようなものだった。
しかし今思って見ると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、物を書くときの私の心の声に聞こえてくる。
私はその歌声にそむくことは出来ない・・・・文章の秘密もそこにあると思うのである。
川端康成 「新文章読本」
ここが川端康成の凄いところで、彼はすでに幼少期の頃に文章表現の核心的な部分を把握していたに違いないのです。
この先、自らが書き下ろすことになる作品は、中身がどうのこうという前に、何よりも読み手に違和感をあたえない流れるようなリズム調でもって読ませるものでなければならないとすでに認識していたというか。
超一級の文体
そして、本多氏はこの著書のなかで、本多氏自身が文章のリズム感を習得するにあたり最も影響を受けた文体というのが、下記にみられる井伏鱒二の作品だったと述べられています。
山椒魚は悲しんだ。
彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外に出ることができなかつたのである。今は最早、彼にとって永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強ひて出て行かうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなつたが、彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
井伏鱒二「山椒魚」筑摩書房版
テン「、」とマル「。」で切りながら朗読してみるとよくわかりますが、実にわかりやすく、自然で、流れるように一息で読み切れることがわかります。
「、」は決して無駄な場所には打たれていません。打つべき理由のあるところ、ただ、そこだけに打たれています。
そして、ところどころに表現されている連体修飾節の見事な配置が絶妙なリズム感を醸し出しているんです。
では、ここからは私の勝手な見解になりますが、どのような仕掛けで言葉が配置されているのかを分析してみたいと思います。
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山椒魚は悲しんだ。
(彼は(彼の棲家である岩屋)から外へ出てみようとしたの)であるが、頭が出口につかへて((外に出ること)ができなかつたの)である。
今は最早、(彼にとって永遠の棲家である岩屋)は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。
強ひて出て行かうとこころみると、(彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓)となるにすぎなくて、((それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠)にこそ)はなつたが、((彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分)であったの)だ。
いかがでしょうか。太字で示した箇所が連体修飾節によって表現されている文体になります。
「証拠)にこそ)」とみられるように、ほとんどが2重の連体修飾節として複文形成されています。
(外へ出てみようとしたの) 「の」は準体名詞、(外に出ること) 「こと」は形式名詞と呼ばれていて、通常の名詞と同じように、そこまでの連体修飾節をまとめ上げる文法的機能を持つんですね。
つまり、太字で示された連体修飾節は「の」「こと」を目指して言葉が綴られていることになるんです。
また、この文章のなかに書かれているそれぞれの連体修飾節は、必ず文頭か「、」の後から書き始められているのが確認できます。
最も読みやすい基本の語順として、長い連体修飾節は区切りの先頭から書かれているのです。
そこに「今は最早」「そして、ほの暗かった」という息継ぎの短いフレーズもうまく差し込まれていて、「出入口の ところが そんなに 狭かった」という4文節もテキスト全体に見えない表現効果を生み出しています。
じつはこの、「出入口のところが(2文節) そんなに狭かった(2文節)」という表現は、よく使われる2文節づつにまとめた「繰り返し表現」となっていまして、長い連体修飾節と合わせて用いることで、文章に心地よいリズム感をもたらしてくれるんです。
そう、短歌における、五 七五 七七 というリズムの「七七」の繰り返し部分の役割を果たす表現と同じなのだと捉えてみるとわかりやすいと思います。(※ 七は2文節)
それならば、短歌の最初の「五」のパーツの役割が、「今は最早」「そして、ほの暗かった」のような言葉にあたるとしてみましょう。
さらに、「七五」のパーツにあたるのが、今回太字で示した、頭でっかちの語順による連体修飾節なのだと想定してみたとしても、それはそれで、やっぱり違和感はないような感じがします。
ようするに、「今はもはや」という短い投げ出しや、「出入口のところが(2文節) そんなに狭かった(2文節)」という繰り返しによるリズム表現、そして、頭でっかちの法則で読ませるリズミカルな言葉の流れ、そういった「、」を境にすることによりいい塩梅で長短が混ぜ合わされた3種類の表現で形成された文体それこそが、まさに、テキスト全体の流れをもっともスムーズに表現する秘訣なのではないのかと思ってしまってしょうがないんです。
やはり、こうして見てみると、私たち日本人がもっとも好みとする文章のリズム感というのは、意外と、この和歌の世界に秘められているのかもしれません。