思いをぶつける文章
「~するコト」、という言い方を私たちはよくします。
「負けないコト」「投げ出さないコト」「信じぬくコト」
じつは、この「コト」という言葉は「形式名詞」と呼ばれていて、動詞述語文や形容詞述語文の後ろに続くことで、名詞文に変換させてしまう文法的役割を持つんですね。
たとえば、「そこに行かなければならない理由は・・」という連体修飾節を例にして説明しますと、「そこに行かなければならない」という言葉は、「理由」という主名詞を修飾する修飾語の役割をはたしているといえます。
あくまでこの文の主役は「理由」であって、「そこに行かなければならない」という文節は、「理由」という名詞を詳しく説明するための補足・飾りにすぎないんです。
ところが、「そこに行かなければならないコトは・・」という文になった場合、その意味合いは大きく変わってきます。
このように「コト」という言葉でまとめ書かれた文で主役となるのは、逆に、「そこに行かなければならない」という動詞文のほうに変わってしまうんです。
「コト」のほうはどうなのかというと、名詞文に変換するためだけの、あくまで意味を持たない中身のない形式的な言葉となります。
だから、「形式名詞」と呼ばれているんですね。
では、なぜわざわざ形式名詞を使って名詞文にするのかというと、「そこに行かなければならない」という事柄を書き手は主張として、強調して読み手に強く伝えたいからなんです。
「そこに行かなければなりません」という動詞文で終わらせてしまうと、どうしても他人事のようなニュアンスを醸し出してしまうことになるので、主張が弱くなります。
そう、まるで誰かに指示されてそこに行かなければならないかのようにも見てとれます。
なので、「そこに行かなければならないというコトなんだ」と名詞述語文にして断定してしまうわけなんですね。
そう、日本語で書かれた文で、書き手の思いや主張を最も強く表現することが出来るのは名詞述語文だけなのです。
一方で、動詞述語文というのはどこか客観的な感覚を持ち合わせているので、書き手の判断や主張を表現するのに適さないのです。
書き手の主観や思いがそこに存在しない報道文や小説物語といった描写文が、主に動詞述語文だけで展開されていくテキスト形式で書かれていることからも、動詞文の本質というのは、第三者の行為を傍観者として叙する発想になっていることがよくわかるんです。
そう、論文やエッセイ、歌詞、ブログといった自分の思いをぶつける文章を書くのなら、「負けない」「逃げ出さない」「信じぬく」なんていう動詞表現だけだと、弱々しくてどこか他人事のようになってしまうので、「負けないコト」「逃げ出さないコト」「信じぬくコト」と名詞述語文にいっそ変えてしまって、他でもない自分のコトとして強く言い切って終わらせてしまうことが必要になってくるのです。
要するにどういうコト
形式名詞は他にも、「彼女の決心を変えさせたモノは・・」といった「モノ」や、「ボーイがお茶を運んでくるトキに・・」といった「トキ」などの表現が見られます。
当然、ここでも「彼女の決心を変えさせた」「ボーイがお茶を運んでくる」という事柄にスポットをあてて、書き手が表現していることが読み取れるんです。
また、「裕子がピアノを奏でているノを聴きながら・・」などの「ノ」、「家賃が入ってこないンだそうだ」の「ン」も、準体名詞と呼び名は変わりますが形式名詞と同じ文法的職能を持っています。
形式名詞と同じように、そこまでの動詞述語文をまとめ上げて名詞述語文に変換させてしまうんです。
「ン」というのは、「ノ」のつまった形(no→n)なので、文法上では「ノ」と全く同じ役目をはたすんですね。
ようは、書き手の主張や思いを、強く訴えるのが名詞述語文の役割であり、それをフォローするかのようにさりげなく詳細を伝えていくのが動詞述語文の役割なんです。
形式名詞を使って表現された名詞述語文というのは、主名詞が使われている名詞述語文とは、また違って、主張はするんだけれども、あくまでソフトに読み手に伝える役割を果たしているといってもいいかもしれません。
もちろん、動詞述語文よりは書き手の思いが含まれてはいるのですが、形式的な分、主名詞を使った表現よりも、若干ゆるやかな言い回しになっているんです。
そして、下の例文のように、特定名詞、主名詞を使ったコテコテの名詞述語文がなぜに書き手の主張を強く表現するのかと言うと、答えは至ってシンプルなんです。
例) 人魚をめぐる神話で最も有名なのは、ギリシャ神話のセイレーンだ。
つまり、名詞述語文というのは、「AはBだ」「Aは他でもないBだ」「Aは言い換えるならBなのだ」という構造を持ちあわせているんですね。
つまり、名詞を他の名詞概念に言い換えて主張しているわけです。
最も有名なノは(準体名詞) = セイレーンだ(固有名詞)
「つまり何?」「だから、どういうコト?」「言い換えれば何?」「要するにどういうコト?」
こういった核の部分に対して答えていくのが名詞述語文の役割なのですから、日本語の基幹文の役割を担っているのも当然のことなのかもしれません。
ただ、おもしろいことに新聞の社説や週刊誌のエッセイを読んで見ても、ストレートに表現されている「AはBだ」的な名詞述語文というのをあまり目にすることはないんです。
「関西圏のラーメンチェーンのなかで、今もっとも注目されているノは、他でもない滋賀から生まれた来来亭だ」などといったベタな表現を目にすることはじつは少なくて、「それこそが、今、来来亭が最も注目されている理由なノかもしれない」と形式名詞でソフトに表現されていることが多いのです。
あくまでも営利を目的とする商品広告のテキスト以外で、私たち日本人が固有名詞を連呼するというようなことはまずないと思います。
だからこそ、日本語のセンテンスには、そんな国民性に適した形式名詞というものがきっと必要になってくるのでしょう。