織田信長の京都支配  麒麟が近づいてきたのか すべてが好転し始める

正倉院秘蔵 蘭奢待

天正2(1574)年、骨董品・茶器の名物収集に励む織田信長は、ついに、御持の蘭奢待(らんじゃたい)を手に入れます。

蘭奢待とは正倉院秘蔵の名香ですが、室町幕府八代将軍・足利義政が手に入れて以降、多くの希望者があっても誰ひとり許されることはありませんでした。

ですが、信長が要求を出すとすぐに朝廷から許可がなされ、日野・飛鳥井の公家が勅使に立って、正倉院の蔵は開かれます。

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長さ六尺の長持ちに収められたその名香がとり出され、信長のためだけに、一寸八分切り取られました。

そう、義政以降の歴代足利将軍が誰も触れることができなかった名香を、信長はいとも簡単に手にしたのです。

信長包囲網の崩壊

朝廷から特別な贈り物を賜った信長。この前年、つまり元亀が天正と改元されるその年は、彼の天下統一の壮図にとって大きな意義を持つ時期でした。

周り中が敵だらけとなっていた壮大な信長包囲網の陣型が、根底から崩壊しはじめたからです。

この年の4月12日、信長を背後から襲い掛かろうと怒涛の上洛遠征を続けていた武田信玄が、信濃伊奈群の駒場の陣中で没しました。

まさに、信長にとっては名将からの攻撃という最大の不安要素が消えたことになります。

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実はこの前々月の2月に足利義昭が、信玄をあてにして信長討伐の兵を挙げていました。

そして7月18日、その義昭が最後の砦とした宇治の槙島城を、信長は落城させ、ついに足利幕府将軍・義昭は京を追放されるのです。

この時点で、室町幕府は事実上消滅したということになり、京都は名実ともに信長の支配下となりました。

翌8月、息つく間もなく信長は、大軍で越前の宿敵・朝倉義景を滅ぼし、すぐさま軍を翻し小谷城に攻め込み、浅井久政・長政親子を自刃に追い込みました。

さらに翌9月早々に、石部城の六角義賢を逃走させ、城を攻め滅ぼします。

元亀元年から数えて4年、信長を何度も窮地に追い込んだ包囲網は、ここに完全に崩れ去ったのです。

最後の抵抗勢力 石山本願寺

天下人となる日が時間の問題の信長にとって、山上の城など今後はもう必要ではありませんでした。

これからは、広大な平野部に、巨城と城下町を思いのままに建設できるのです。

地理的に日本の中心にあり、水陸交通の便に優れている。なおかつ海に近くて海外貿易の発着港がある場所。

そう、これらの条件を満たす天下を治める場所は大坂以外にはありえなかったのです。

貿易立国と福原遷都を目指した平清盛を自身になぞらえた信長にとって、どうしても大坂(石山)の地は必要でした。

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ですが、その大坂の地には、信長の最後の敵対勢力である顕如の率いる石山本願寺の組織的抵抗がありました。

石山本願寺の一向一揆は、東海・北陸・畿内・近江・紀伊におよび、信長のいくところには必ず一揆が、その行く手に立ちはだかったのです。

信長と本願寺の戦いは、元亀元年にはじまり、その期間はじつに11年間に及びました。

それに前後数年の一揆余動の期間を加えると、信長入京から天下統一の過程にほとんど合致するんですね。

まさに、信長の深い苦悩の核の部分は、石山本願寺の存在だったとも言えるでしょう。

ですので、信長にとって、一向一揆の鎮定なしには分国郷村の完全な把握も、京都の管理も不可能だったのです。

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そして天正8年正月、ついに朝廷から勅旨が出され、信長と顕如の講和が成立します。

4月9日、宗祖親鸞の影像を奉じた顕如は、大坂を退城して紀州・鷺森に退き、ここに、まる十余年に及ぶ一向一揆の信長への抵抗は終わりを告げました。