京都案内  こうへいブログ  

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三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺

750年前から守られてきたお堂

長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。

後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。

そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。

1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。

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千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。

人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。

観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。

内部は極彩色の文様で彩られ、外部の柱や梁(はり)も朱で塗られた色鮮やかな建物だったのですが、建長元(1249)年に炎上し、跡形もなくすっかり焼失してしまったのです。

ですが、中にあった仏像の千手観音像156体と二十八部衆は無事救出されました。

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その後、後嵯峨院が文永3(1266)年に再建しましたが、その時、全面的に協力にあたったのが、東山九条にある東福寺を建立した九条道家、そして仏師湛慶です。

最初の創建から100年もたっているのですから、当然、後白河院も清盛も、もう何処にも存在しません。

ですが、次世代の最高権力者たちによって、この世に人々が救われる浄土を出現させるという思いは、またそこに引き継がれてきたんですね。

その再建された新生、三十三間堂は、現在まで約750年の長きにわたって大切に保存されてきました。

東山七条という都の中心地にありながら、幾たびの兵火をくぐり抜けて、見えない何かに守られてきたんだという事実、それは、まさに奇跡といってもいいのでしょう。

十一面千手千眼観世音菩薩像

1001体ある観音像ですが、本尊の千手観音座像を真ん中に、千手観音立像が左右500体づつ分かれて並んでいます。

この内、運慶(うんけい)と、子であり弟子である湛慶(たんけい)の作が120体入っていて、本尊は湛慶の制作になります。

残りの諸仏は、康円(こうえん)、康清(こうせい)など、南都仏師団が総力をあげて制作にあたっているんですね。

でも、なぜ1001体もの千手観音像があるのかというと、それは、やはり数の信仰からなのでしょう。

この時代、仏像は一体でも多く造れば造るほど、数が多ければ多いほど、功徳が高くなると信じられていたのです。

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悪魔のチカラ身につけた二十八部衆

1001体の千手観音菩薩を守護するために、前方には二十八部衆と風神・雷神像が厳然と鎮座しています。

元和2(1616)年に、三十三間堂を訪れた英国東インド会社の平戸商館長のリチャード・コックスは、まるで悪魔が並んでいるようだ、これほど魅力的な像は見たことがない、世界の七不思議に選ばれるだろうと、絶賛したといいます。

俵屋宗達の国宝屏風の題材となった風神雷神像。武将をモデルにした五部浄。貴族を模したといわれる帝釈天。

さらに、庶民の老人や老女の姿をした婆藪仙人(ばすせんにん)や摩和羅女(まわらにょ)など。

憤怒の形相に造られた悪魔像たちは、個性的な姿で千体仏の単調さを救うように、訪れる人々を魅了しています。

もうひとつの三十三間堂

この東山七条の三十三間堂には、母胎となる同規模クラスの宗教施設がありました。

それは、1132年、平清盛の父・忠盛が鳥羽上皇のために建立した得長寿院(とくちょうじゅいん)です。

岡崎の地に建てられた、このもうひとつの三十三間堂は、蓮華王院と同じように正面の柱間が33あり、内部には本尊・十一面観音菩薩像、その左右には等身大の聖観音菩薩が500体づつ安置されていたのです。

そして注目すべきは、その1000体の聖観音菩薩の胎内に、さらに各1000体の小さな仏像が納められていたことです。

つまり、得長寿院には大小含めて、100万体の観音がいたことになるんですね。

ですが、この100万体いた三十三間堂のほうは、1185年の大地震で倒壊し、残念ながら再建はされませんでした。

このとき発生した元暦の大地震は、「在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず」と記録に残るほど、凄まじい被害を京都市中に及ぼしました。

白河天皇が建立した法勝寺以下の、そう、院政期まで存在していた貴重な文化財は、一旦、この時に大打撃を受け、ほとんどが消失してしまったのです。