高桐院  忠興の思い 愛しきガラシャよ永遠に

一度は見ておきたいアプローチ

竹林に囲まれた高桐院の苔が敷き詰められた庭の中に、書院に続く歩いて1分ほどの小径があります。これが、スピルバーグが立ち止まり感激し絶賛したといわれる有名な高桐院のアプローチです。

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細川藤孝を弔う高雅な寺院

そして、静寂に包まれた本堂の前庭は、竹と楓の木が風に揺れています。石灯籠を墓とする戦国大名の細川忠興とガラシャ夫人を葬る一角があるのですが、この石灯籠は千利休が天下一と称して、忠興に贈られたものと伝わります。

うつろう四季のなかで見せてくれるこの庭の景色も、深い味わいがある一度は見ておきたい庭です。

高桐院は、1590年、戦国大名の細川忠興が父親の細川藤孝の菩提をとむらうために、叔父の玉甫紹琮を開山として建立した細川家の菩提寺です。

利休から茶道の直伝を受けたという忠興は、利休七哲の一人であり卓越した審美眼をもっていました。まさにここは、忠興の高い趣味を感じさせる高雅な寺院なのです。

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忠興 ガラシャへの永遠の思い

この忠興の夫人がガラシャですが、彼女は明智光秀の娘です。天下一の裏切り者と呼ばれた父を持ったガラシャは、秀吉の命によって丹後地方に一時幽閉されましたが、のちに許されて大坂の細川家屋敷に戻ります。

忠興は秀吉みたいなもんはどうでもよく、ガラシャの帰りを大喜びします。屋敷に帰宅するとガラシャが居てくれるんだなぁと思うと、スキップして帰りたくなる忠興なのでした。忠興にとってガラシャは、ほんとうに心から必要なひとだったのです。

彼女がキリシタンであったのは名前から想像できますが、忠興の親友の高山右近がキリシタン大名であったつながりでガラシャはキリシタンとなりました。

関ヶ原の戦いのとき、石田三成は徳川方の大阪在住の各大名の夫人を人質に取りました。細川家は徳川側でしたので、その手は当然ガラシャにもおよびます。

忠興に負担がかからないように、ガラシャはこれを強く拒否し、指し向けられた兵に屋敷を包囲されました。自ら命を絶つことを許されないキリシタンのガラシャは、家臣に胸を突かせて最期を迎えたのです。

この事実を受け入れられない忠興の怒りは凄まじく、単身で三成のもとに向かおうとするのを、身内のものたちは必死になって押さえつけます。

同じ利休七哲の高山右近や古田織部といった仲の良い大名たちは、深い悲しみに打ちひしがれた忠興を黙って見守るしかありませんでした。

利休の石灯籠

利休が忠興に贈った石灯籠は、もともと秀吉が所望していたのですが、利休はわざとその一角を破損させ所望を断ります。

そして利休は、秀吉から切腹を命じられたときに、遺品としてその灯籠を、もう会うこともない忠興に贈りました。利休が灯籠を忠興に贈ったのは、忠興なら自分の気持ちが分かってもらえると思いをはせていたからです。

のちに、忠興はその灯籠を悲運に逝去したガラシャと彼自身の墓として用いました。離したくない人たちほど、自分のもとからいなくなってしまう。

利休とガラシャという悲しく生涯を閉じた二人に対する忠興の深い愛情が込められているのが、そこに儚く感じられます。