ではあるのだけれど
夏目漱石の小説のなかに「吾輩は猫である」という著名な作品があります。
漱石はなぜ「吾輩は猫だ」とせずに「猫である」というタイトルにしたのでしょうか。
「である」と「だ」という言葉は繫辞(けいじ)と呼ばれていて、主題と述語を結ぶ品詞の役割をはたします。
このタイトルの場合、主題が「吾輩」で述語が「猫」にあたり、それを「である」で最後に括ることで文として完成されているんです。
「猫ではある」「猫ではない」、この「ではある」「ではない」という二つの言い方は、日本語で判断を表すための肯定否定の典型的な形式となっているんですね。
断定の助動詞「だ」を連用形「で」にして、「は」という係助詞で受けとめ、形式用言「ある」「ない」で括っています。
「ではある」と聞くと、「ではあるのだけれど」と続くような感じがします。
そう、「だ」と、断定的に言い切らないことで少し柔らかな表現とされているんです。
こういった、形式用言を使って少しソフトな表現に変えられた言い方が日本語ではよく使われます。
たとえば、「もうすぐ新学期だ」という言葉を「もうすぐ新学期になる」という言い方で表現することがよくあるんです。
「もうすぐ新学期だ」と聞くと、「よし、がんばるぞ」といった決意めいたものを感じますが、「もうすぐ新学期になる」と聞くと、自然な時の流れを受けとめるかのように、「そうか、新学期になるのか」という風に聞こえてきます。
この形式用言「なる」を使った「になる」「となる」という言い方はよくみられ、変化を表す動詞「なる」の本来の変化性は希薄になっていくことになるんです。
「ある文」志向の日本語
何気ない日々のなかで私たちは「食事の用意ができましたよ」とか、「お風呂が湧きましたよ」という言い方をします。
いかにも自然に出来あがったように話すことで押しつけがましさを回避する。
「お風呂を沸かしましたよ」という言い方をするときは、なにかそれまでに特別なやり取りがあった場合だけではないでしょうか
これが私たち日本人の普通の感覚であり話し方です。
こういった日本人の特徴をふまえてよくされるのが、英語が動詞(Do)に象徴される行為文(する文)であるのに対して、日本語は存在文(ある文)だという比較対象です。
この「ある」という動詞は、日本語の根幹を表現する言葉なんですね。
「そこにある」、その事実は人間のコントロールを超えて、もうそこに既成事実として成立してしまっている。
自分ではどうしようもない、というニュアンスが加わってくるんです。

たとえば新幹線に乗っていて、車窓に富士山が現れたとします。
私たち日本人ならおそらく、「あっ、富士山が見える」と言うに違いありません。
ですが母国語として英語を話すアメリカ人なら、日本語の直訳に当たる「Mt.Fuji is visible!」とはまず言いません。
英語として最も自然な言い方で「I see Mt.Fuji」と、「私(I)」を前提にした行為文(する文)で言うはずです。「私は見ている、そう、富士山を」
一方で、日本文にする場合は「人間の行為」としては捉えません。
あくまでも、それは「富士山」が「見えてきた」「視界に入ってきた」という状況を表現する状態文になるんですね。
状態文は存在文と共に、「ある文」と呼ばれます。
状態は「(元気で)ある」、存在は「(そこに)ある」というように、両方とも「ある」を含んだ文と解釈できるからです。
まさに「自発」、そこにあるのは「ある言語」志向です。
「自発」とは、「自ら発する」という解釈ではなく、「自然に発している」という意味なんですね。
ちなみに「なる」という動詞は、「に・ある」が置き換えられた言葉ですので、「ある」と同じカテゴリーと見なすことができます。
日本語の3大動詞と呼ばれる「ある」「する」「なる」のうち、「ある」と「なる」の対極にあるのが「する」という動詞なんです。