日本語の文は述語が統一してるという原理をこのブログでは繰り返し伝えてきました。
たとえば「桜の花が公園に咲く」という文の場合、「桜の花が」と「公園に」という成分が述語「咲く」によって統一されています。
そしてこの文を「桜の花が公園に咲くね」「桜の花が公園に咲くよ」と変えると、読み手に伝聞するという話し手の意思が加わることになります。
この相手に呼びかける「ね」「よ」という言葉は「終助詞」と呼ばれていて、必ず文の最後に位置付けされるんですね。
文をまとめ上げるという述語の役割を「統叙」、伝達の意思を「陳述」と当てはめた場合、そのふたつの間に登場する一群の語が「助動詞」です。
「助動詞」は「助詞」と同じく日本語の根幹を成す言葉で、「助動詞」の使い方ひとつで、「文」だけではなく「文章」全体にまで影響を及ぼすことになります。
「桜の花が公園に咲いたよ」という文で見てみると、この「咲いた」の「た」という言葉が完了の助動詞なのですが、「咲く」ではなく「咲いた」とすることで続く文脈は大きく変わっていくんです。
「桜の花が咲く」という現在形の表現だと、まだまだ描写や説明が先の文脈に続いていく感じがしますが、「桜の花が咲いた」と完了形を選ぶと回想している感じが出て、落ち着いた雰囲気になるんですね。
わかりやすく見るため例文で見てみましょう。
潮だまりにはたくさんの生き物がいた。巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる。太郎はそうした生き物を夢中になって捕まえた。
最初の文の「生き物がいた」と、最後の文の「捕まえた」が完了形で描かれていて、そのなかの一連の文が現在形「る」で書かれているのがわかります。
「巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる。」と、現在形で書かれていると臨場感が出るので、潮だまりのなかを観察している感じがします。
それを、「生き物がいた」「捕まえた」という完了形の文で挟み込むことでこの文章をまとめ上げているのが読み取れるんです。
カメラアングルに例えると最初と最後が「引き」で撮られ、現在形「る」で書かれた途中の文が生き物たちの描写でズームアップされているという感じでしょうか。
このように助動詞「た」を使って文章に完了形のセンテンスを差し込んでいきます。
「る」という現在形と「た」という完了形の文末を使い分けるこの呼吸が自然に身についていけば、文章を書くことがもっと楽しくなるに違いありません。