日本語と英語の違い
言語博士の金谷武洋氏は、日本語と英語の発想の違いを次のように説いています。
「日本語は人間を表すというよりも、自然中心の言語表現が多くて、逆に、英語は人間の行為をせっせと表現する。」
つまり、意図を持った行為として言語表現する傾向が英語の場合は非常に強いということなんですね。
「国文法」の世界では、日本語は「(ある)言語」、英語は「(する)言語」と呼ばれているんです。

ここで分かりやすく見るために、同じ内容のセンテンスを日本語と英語で比べてみましょう。
Ⓐ I have time.→ 時間がある。
Ⓑ I understand Chinese.→ 中国語が分かる。
Ⓒ I like this city.→ この街が好きだ。
Ⓓ I see Mt.Fuzi.→ 富士山が見える。
Ⓔ I hear a voice.→ 声が聞こえる。
英語の例文はことごとく他動詞を使った積極的行為文(する文)です。
「I」(私)は「主語」であり、さまざまな行為の動作主(「する」人間)として表現されています。
日本語の場合はそうではないんですね。まず大抵の場合「私」はそもそも登場しません。日本語では、わかりきっていることは表出しないのです。
行為文である英語とは正反対に、日本語で重要とされるのは格助詞「が」で示される名詞なんです。
「時間が」「中国語が」「この街が」といったように、これらの単語は行為者ではありません。
英語のように「誰かが(意図的に)どうする」という表現ではなくて、「何かが(自然に)どうなる」という言い方をするんですね。
つまり、「行為者不在」の傾向が極めて強いのです。
述語の一本立て
日本語の基本文は述語一本立てです。その種類は、名詞文(好きです)・形容詞文(楽しい)・動詞文(笑った)の3種類だけになります。
事柄に応じた構成素が「補語」として、これら3つの述語文に足されていくことで複雑な文が完成する。それが日本語の文の仕組みなんです。
たとえば、
Ⓕヒロシが家でパンを食べている。
という文の場合、この文を支配しているのは「食べている」という動詞述語です。
「ヒロシが食べている」「家で食べている」「パンを食べている」
「食べている」に対して、「ヒロシが」「家で」「パンを」の3つの補語はあくまで同等の関係であって、「ヒロシが」という人称名詞「が」のついた主語だからといって特別に重要だというわけではないのです。
ところが、これを英語文にすると構成は違ってきます。
Ⓖ Hirosi is eating bread at home.
(Hirosi = is eating) bread
(Hirosi = is eating) at home
ⒼのBe動詞isは、主語 Hirosi が起こさせた(いわゆる人称変化)です。英語では主語が決まらない限り文が作れません。
この主語と動詞の間の特権的なつながりこそが英語の核心的要素なのです。
この関係を二重線「=」で示しているのは、その「不可欠性」のためです。この二重線を挟んで主述関係は成立しています。
でも、日本語文の「が格補語」と動詞述語の間にはそんな特別な関係はありません。日本語文で最も重要なのは「食べている」という述語だけです。
ではなぜ「述語の一本立て」を強く意識下に置いておくのかというと、それは、読み手に少しでもわかりやすく文を読んでもらうためなんですね。
「述語の一本立て」ということは、文末に述語を固定さえすれば、前に置いていく言葉は自由に並べることができるということです。
たとえば、Ⓕヒロシが家でパンを食べている。という例文を次のように変えてみます。
Ⓗヒロシがリフォームしたばかりの家で2時間並んで手に入れたお気に入りのパンを食べている。
かなり読みにくくなりましたが、これは、「家」に「リフォームしたばかりの」という修飾節が、「パン」に「2時間並んで手に入れたお気に入りの」という修飾節が付け足されたためです。
読みにくいどころか、「家で2時間並んで ?」と、一瞬、誤解してしまうような恐れすらあります。
ヒロシが リフォームしたばかりの家で 2時間並んで手に入れたお気に入りのパンを 食べている。
「食べている」に対する構成素は同じく3つですが、おそらく、多くの読み手が読み返してしまうことになるのではないでしょうか。
では、この文を次のように構成してみます。
Ⓘ2時間並んで手に入れたお気に入りのパンをリフォームしたばかりの家でヒロシが食べている。
頭のなかで音読してみるとわかりますが、「食べている」という文末の述語まで一呼吸で読み切ることができるはずです。
2時間並んで手に入れたお気に入りのパンを リフォームしたばかりの家で ヒロシが 食べている。
そう、述語「食べている」を指標として長い固まり順に補語を文頭から並べていくのです。ただ単純に長い順に並べていく、「頭でっかちの法則」ですね。
「(ヒロシ)は主語なのだから文頭に持って来なさい」と、私たちが義務教育で習った国語の授業はいったいなんだったのでしょうか。
英語とちがって、主語と述語の不可欠性なんてものは日本語の文にはないのですから、主語が短ければ文頭に持ってくる必要はどこにもないのです。