日本語の核となっているのは述語であり、補足する構成素が述語の補語として加わり、次々と意味を限定していきます。
「述語の統叙」と呼ばれるこの働きは、述語の優位性を示していて、日本語の中心に位置するのが述語であることを裏付けています。
英語とは違って、日本語では、主体(動作主)中心の論理的な表現にこだわらず、主体不在の状況の推移を順次述べていって、最後の述語でまとめ上げるという表現法をとるんです。
動詞文「(もう)寝る(よ)」 形容詞文「(ずいぶん)寒い(ね)」 名詞文「(また)雨だ(ね)」
といった述語文を基本として、次いで、「が」「を」「に」に見られるような、格助詞に名詞が付いた補語の要素が追加されて、さまざまなパターンの文が構成されているんですね。
たとえば、「彼が彼の棲家である岩屋を出ようとした」という文の場合、述語「出ようとした」が核となって、「彼が」「彼の棲家である岩屋を」という2つの構成素を統叙しているわけです。
彼が 出ようとした
彼の棲家である岩屋を 出ようとした
「が」「を」といった前にある構成素を、「出ようとした」という述語が後ろから取り込んでいるイメージを描いてもらえればわかりやすいと思います。
つまり、「が」や「を」が付いた補語は、文の構成においては、述語に統叙されるだけ、取り込まれるだけの存在にすぎないのです。
また、この統叙の職能を持つのは動詞、形容詞といった「用言」に限られます。
名詞は「体言」になりますので、この統叙の職能を持ち合わせていません。
では、名詞述語文はどのように統叙するのかというと、その役割をはたしているのが「だ」という助動詞なんです。ちなみに、「です」は「だ」の丁寧語にあたります。
だから、「走るだ」「美しいだ」と言えないのは、もともと統叙機能を持ちあわせた用言に、さらに、統叙機能を持つ助動詞「だ」を重ねることが出来ないからなんです。
「走るのだ」「美しいのだ」といったように、形式名詞「の」が付けられ動詞・形容詞が名詞化することで、はじめて「だ」につなげることが出来るんですね。
そして、「きれいな」「静かな」といった、国文法で無理やり形容動詞と定められている品詞は、本来、形容名詞の職能を持ちあわせているといえます。
「きれいだ」「静かだ」と自然に言えるのがその証拠で、「用言」の括りで扱われているといっても、これは例外とみるべきでしょう。

ただ、述語が全てを統一するという日本語の仕組みを統語論として理解したとしても、実際に話したり、文を書くときの思考の流れは、まず述語ありきではありません。
(主語+述語)で、いきなり結論を先に述べて、あとから、補足を付け足していくという言葉の流れは英語の発想なんです。
日本語の場合、当然ながら文を書くときは補語から書き始めることになるので、個々の結合は意識していても、最終的な被修飾語、つまり述語をいつも書き手が意識しているとは限らないんですね。
これは、日本語の講演の録音データを聴けばよくわかるのですが、話の途中で論理的な呼応が失われている破格構文の積み重ねで、ずっ~と話は続けられていきます。
話しの途中で「なので、え~、あ~」というフィラーがよく聞こえてくるのも、話者がどのような言葉で話を一度区切ろうかと、思考をはじめ出すからなんです。
ただ、これは括りを用言で終えようとする場合で、名詞で締めくくる場合は、また違う構造になるのではないかという気がします。
名詞述語で主張する場合は、「AはBだ」という形を取るので、当然、最初から「B」という答えを示す述語は書き手の意識下に、しっかりと、置かれていることになります。
たとえば、連体修飾節で見てみるとわかりやすく、
(いきなり歌いはじめたのが圭介だ) → いきなり歌いはじめた圭介は、
と書くときに、主名詞である「圭介」という名詞は、すでに、書き始めの書き手の意識のなかに芽生えているはずなんです。
だから、複文を書くときでも、主名詞という区切りの言葉は明確に意識下にあるわけですから、当然、書き手の筆は走りやすくなるんですね。
また、日本語の動詞というのは終止形が、連体形・連用形へとスムーズに変革される構造になっています。
「花が咲く・水が流れる」といった終止形として用いられる語形がそのまま連体形として「咲く花・流れる水」という連体修飾語になったり、形式名詞のコトをつければ「花が咲くこと・水が流れること」と名詞句になるのです。
さらに、「遊ぶ」「歩く」といった終止形を連用形にすると、「遊び」「歩き」といった動名詞になります。
これが、「名詞的性格を持つ日本語の表現」といわれる特徴で、日本語の動詞というのは強く名詞的性格を秘めているんですね。
主体(動作主)中心の論理的な表現をする英語のような言語では、ワンセットになった動詞の表現が非常に重要視されます。
ですが、それまでの文脈に依存する日本語の文では、主体は省略されることも多く、表出してなくても無頓着でいられるので、「誰がどうした」「なにがどうなった」という表現を何度も繰り返す必要はないのです。