こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

見るもの 見られるもの 表現主体の位置を読み取る

文章構成の本質は、その対比構造のありように潜在しているのだということをこのブログでは繰り返し述べてきました。

「詞」と「辞」、「客体」と「主体」、「事柄」と「陳述」、「ます」と「です」といったように、その相対するふたつの関係が文章を構成し、表現の意味を宿しているという解釈です。

前回でもご紹介しました「ことばの藝術」という文章読本のなかで、著者の杉山教授はこれを次のように説いています。

「対比するふたつの文は、単にABふたつの文というだけでなく、客体界と自己主体の関係を無限に連接する。この関係が文章を決定づける。この客体界と自己主体の関係は空間的であると同時に時間的であり、辞は詞に対して常に、「いま」「ここ」を表現する。」

たとえば、「小説」という文章を題材とするなら、まず、そこには書き手「自身」が投影された「主人公」の存在があるわけです。

ある場面設定では、「主人公」は「自然」と対比しているかも知れないし、また違う場面では、「主人公」は「群衆」と対比しているかも知れません。

「主人公」は対比する客体界との相対関係のなかで、「いま」「ここ」という表現位置を獲得していくわけなんですね。

杉山教授は、

「一元描写の小説では、その主人公、そしてそれに即する表現主体はつねに「見る」という優位の立場にあり、決して「見られる」立場に立つことがない。そういう絶対的自我である。」

とし、その表現世界を近代に新感覚で確立させたのが小説の神様と呼ばれる志賀直哉なのだと、この著書のなかで断定しています。

また、そのような志賀の到着点を踏まえつつ、そこからさらに自然主義の表現に戦いを挑んだ例として、作家・横光利一の「頭ならびに腹(1924)」という作品の冒頭が例文提示されているんです。

真昼である。特別急行列車は満員のまま馳けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。

まず、この文章の表現主体の位置を注視してみます。

じつは、この文章は「見る」もの、「見られる」ものが逆転しているんですね。

「真昼である」という冒頭、これは誰の立場かと思い、続く「特別急行列車は満員のまま馳けていた」も、これは列車のなかの立場か、外の立場か、そう思いつつ「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」と括られます。

この最後の文によって、表現主体は黙殺される小駅の立場にあることがまず、明らかになります。

すると、それとの対象において、まえの「特別急行列車は」のところは列車のなかの立場だったんだと反省される仕掛けになっているんです。

この表現位置のくい違い、逆転、これがスピード感を表現しています。表現主体の位置を自在に操り提示することで、こういった巧みな表現が可能になるわけです。

この見るもの、見られるものの逆転は、志賀にもそれまでの自然主義の文章にもなかったものでした。横光はまったく新しい表現手法を、この時点で確立させたのです。

最後に、同時期の横光の作品である「蠅(1923)」という作品を見てみましょう。

ここでは、一匹の蠅の立場に立つ表現主体が設定され、馬車の馭者や乗客の立場に立つ表現主体とが交錯していくんです。

馬車はその直後、崖の下へと墜落してしまうのですが、その絶望感は一匹の蠅の視点を軸として描かれているんですね。

感情を持たない視点から導かれたその絶望感は、やがて読者のもとへと浸蝕していくことになります。わたしたちは怯えながらも、この緊迫した客観世界から目をそらすことができません。

その(馭者)居眠りは、馬車の上から、この眼の大きい蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光を受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、さうして、馬車が高い崖路の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてまだ続いた。併し、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅かにただ蠅一匹であるらしかった。