こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

9月半島 主人公の心柄と自然世界が融合する見事なその描写

「詞」と「辞」の関係、それは、「客」と「主」という関係に言い変えることができます。

「詞」は「主体」の向こう側にあり、「辞」は「詞」のこちら側にあります。

そこには、あちらとこちらという相関関係があるんですね。

たとえば、「果てしない青さが広がる海」という外界の「客体」があるとします。

そこにひとりの女性が「主体」として登場して、その「客体」に対してどう感じとったのか、どういう行動をとったか、そこに「辞」が表現されることになるのです。

斎藤茂吉の短歌で見てみましょう。

Ⓐ郊外はちらりほらりと人行きてⒷわが息づきはなごむとすらむ

Ⓐは外界の表現、Ⓑは茂吉自身の内部の表現になります。

ですがⒷから遡って見ると茂吉は確かにⒶでは人の行き来きするなかを通っているんです。そのときの茂吉の息づきは荒かったんですね。

つまりⒶは外界でありながら、そこに茂吉は潜在しているんです。

それに対して、Ⓑの茂吉は顕在しています。茂吉は、Ⓐでは外に向き、Ⓑでは内に向かっているといっていいでしょう。

ここが、混同してしまってわかりにくくなるポイントなのですが、それは、Ⓐが「詞」で、Ⓑが「辞」だということではありません。

Ⓐは潜在的に、Ⓑは顕在的に、それぞれに作者主体の「辞」は宿っているんです。

それぞれが一つの「いま」を表す、そう、これは「辞」と「辞」の関係なんですね。

息づきがなごもうとするⒷの作者主体は、息づきの荒いⒶの作者主体を想起しているんです。

ⒶとⒷの間にある多義的な関係、それがこの歌の意味なのでしょう。

同じように今度は、今井美樹「9月半島」の歌詞を題材に、その「辞」と「詞」、「辞」と「辞」のありようを見ていきたいと思います。

果てしない青さを海まで追いかけたくて 砂の残る素足で錆びたペダル漕いでいく

光りのモスリンが柔らかな風を編んで

流れだす黒髪も ほら 息を切らし走る 輝いた翼になる

波のしぶき聞きながら 心は弱さ責めるけど 許せなかった 帰れなかった 忘れたかった

<♪>

自転車を休めて木陰で汗をぬぐった 急ぐたびに誰もがなぜ何かを失うの? 振り向くこともできずに

今は空の下にいる遠い子供にもどってみる 沖に遊ぶ鳥のように自由でいたい

波のしぶき聞きながら だけどつらくなった時は 夢でもいい あなたがいい 思い出でいい

果てしない青さを海まで追いかけたくて 息を切らして走る ああ 傷つけあうよりも 今一人をえらんだの

青字でなぞった部分が外界に対する主人公の表現位置になっていて、これは短歌の例とはまた違って、明らかに顕在的にその位置、その「辞」を表現しています。

「漕いでいく、走る、聞きながら、弱さ責める」と「いま、ここ」にいる作者主体はハッキリと表現されているんです。

そして緑の字で書かれた部分の歌詞が作者の内部、内に向く自己の表現、つまり心理描写の「辞」と言えます。

ですが、そこに茂吉の短歌にみられるような時間的なズレはなく、この詩では、作者主体の意識の同時的な二重のありかたとして二つの「辞」は同時進行しているんですね。

「波のしぶき聞きながら許せなかった、忘れたかった

つらくなった時は、夢でもいい、思い出でいい

と続き、「息を切らして走る、傷つけあうより、今一人をえらんだの」と締めくくられています。

「今一人をえらんだの」と、主体の表現位置を最後にしっかり示して終えることで、この女性(主人公)の強さがあぶり出される仕掛けになっているんですね。

主人公の、その切なさを秘めながらも気高くあろうとする心柄、それは雲間が現れていくように、晴れた海辺の自然世界と親しく触れ合っていきます。この触れ合いによって精神が踊り出し、自然と自己が同時に発見されるんです。

 

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