今回も文章読本「ことばの藝術」を手引きにし、「表現主体の位置」について、さらに深く掘り下げていきたいと思います。
ときは明治初期、「言文一致」という、言語表現の変革の嵐が吹き荒れました。
「言文一致」、つまり、話すように書いて言と文を一致させるという新しい表現で、真に目指すところは、極微なところを写すことであったり、眼前の事実を見るように書くという、いわゆるリアリズムの手法となります。
当時、模写というのは表現変革にとって金科玉条であり、二葉亭四迷、国木田独歩、島崎藤村、志賀直哉といった作家たちも、その新しい文学表現を獲得しようと、手がかりを求めてまさぐり続けていたんですね。

たとえば、二葉亭四迷が書き下ろした、ツルゲ―ネフ「あひびき」の翻訳は島崎藤村に強い衝撃を与えました。
これに触発された藤村は、時々刻々の変化をとらえ、その変化を文章にとらえようとして次のような表現を試みます。
晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしやう。すこし裾の見えた八ヶ岳が次第に険しい山骨を顕して来て、しまひに紅色の光を帯びた巓まで見られる頃は、影が山へ山へ映して居りました。
甲州に誇る山脈の色は幾度変わったか知れません。今紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照らし始める。
見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ、朝です。 『藁草履』(1902)
藤村にとってはこの時期は詞から散文への転機だったらしく、この執筆のあと、彼はその表現修行のために山にこもったといいます。
そして、この『藁草履』の部分は、のちの藤村の作品である『千曲川のスケッチ』にも引用されていて、なんと、藤村はそのコメントのなかで、「いや~わしも蒼かったなぁ。懐かしい」みたいなことを言って、自らを評しているんですね。
「ことばの藝術」著者の杉山教授も、この『藁草履』の部分を次のように批評しています。
ここではたしかに次々刻々と変化をとらえようとしている。しかし、それはただ、今、今、と力むだけでは表現されない。
今、今、ということでいかにも瞬間々々に立っているようでありながら、すぐそのまえには「山脈の色は幾度変わったか知れません」というようにその今を予め統括的に説明してしまっている。
そういう表現が随所にあって「いま」がとらえられない。作者の表現の自己位置というものが厳密に定まらないのである。
ですが、藤村は後に書いた「千曲川のスケッチ」で、同じような山の朝の表現を次のように表現することに成功しています。
私達は重なり畳なった山々を眼の下に望むような場所に来て居た。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に赤い雲が棚引いた。
次第に山の端も輝いて、あかい雲が薄黄色に変る頃は、夜前真黒であった落葉松の林も見えてき来た。
―中略― 山上の雲はようやく白く成って行った。谷底も明けて行った。光の触れるところは灰色に望まれた。 (其八 山の上の朝飯)
杉山教授は「似たような表現だが、両者の間には千里の径庭があるように思われる。『千曲川のスケッチ』のレベルが獲得されるには藤村の才能もさることながら、さらに十年の歳月が必要であったのだ。」とまで、この著書で述べているんですね。
そう、藤村が信州の山にこもり、「もっと自分を新鮮に、そして簡潔にすることはないか」と志し、画家の用いるような三脚を野外に据えてつくりだした文章とはこのようなものであったのだと絶賛しているんです。
でも、そこまでの善し悪しの差とは、いったい何がもたらしているのでしょうか。
まず、『スケッチ』では、「来て居た」「見えて来た」「望まれた」といったように自己位置が明確に表現され、外界はそれとの関係において表現されています。
そしてその文末の多くは現在完了的な「た」止めの短い文の連接によって文章が構成されていて、「いま」「いま」と力む以上にその表現は鮮やかなものとなっているんです。
一元描写の場合、書き手と主人公の視点は一体化します。書き手は、客体世界の極微なありさまを必死に描写しようとするあまり、一人称自身の説明がぼやけてしまうことがあるんです。
つまり、自分自身の表現位置が読者にどう映っているのかというのかという意識が、いつのまにか抜け落ちてしまっているんですね。
表現主体の位置が明確に表現されていれば、その位置が読者の視点の中継地点となって、作者と読者の視点は同化されていくことになります。
作者の「辞」と表現主体の「辞」、そして、読者の「辞」。
全ての視点は一体となって、向こう側にある客体世界と親しく触れ合うのです。