こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

文章表現における心地よいリズム感はどのようにして生まれるのか

国語におけるリズム形式の美調とはなにか、国語学者の時枝誠記の著書である「国語学原論」のなかに、詳しく述べられている箇所があります。

リズム形式というと、一般的には音声の強弱における構成がイメージされます。

タン、タ、タン  タン、タ、タン  タン、タ、タン  

タン、タタ  タン、タタ  タン、タタ  タン、タタ

といった感じでしょうか。

リズムとは、一般的にその基本単位が群化してより大きいリズム単位を構成するものなので、基本的リズム形式によって、その群団化のスタイルは大きく左右されるといいます。

強弱型リズムにおいては、強音の強調が群団化の標識となるんですね。

ですが、国語におけるリズム形式は決してそうではなくて、その拍音に強弱を識別することも、音声に強弱を附してリズム形式を実現することも稀なんだと時枝氏は説いています。

国語におけるリズム形式の群団化の標識、その方法とは、やはり「音声の休止」にあるらしいのです。

たとえば、〇〇〇休〇〇〇休〇〇〇休〇〇〇休

といった3音節によるリズムの群団の場合、その基本的リズム形式は、調音の休止の間も等時的間隔を似て流れていると見ます。

そうすると、休止が群団化の標識となるので、かかる音声の連鎖においては特に強調音を必要としないのです。

これは、私の勝手な考察なのですが、ひとつの「文」において、この「音声の休止」にあたるのは読点「、」であり、いくつかの文で構成された「文章」において「音声の休止」にあたるのは句点「。」となるのではないでしょうか。

このブログでは繰り返し述べているのですが、ひとつの「文」にあてはまる理論は、必ず、いくつかの文で構成された「文章」の理論にもあてはまることになるからです。

では、このように群団化された国語のリズムは、さらに、どのようにして美の要素、つまり美調を生み出していくのでしょうか。

一般的なリズム形式なら、〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇 という単位で進行しても問題ないのですが、国語におけるリズム群団の場合、これでは美調なリズム感を表現することは出来ません。

国語のリズム形式は運動的リズムの単位とはならずに、絵画的あるいは建築的美の一要素になろうとするため、そこに必要とされるのは「対比的要素」なんです。

つまり、〇〇〇休〇〇〇〇休〇〇〇〇〇休 3,4,5,といった345比のような形で音節数が構成されてなければなりません。

ウリヤ ナスビノ ハナザカリ

また、時枝氏は、国語の詩歌はこういった対比が相加わって構成されたものであり、表面的には七音節の規則正しい進行のように見えて、実は上に述べた対比によって構成されたものが多いのだと解析されています。

たとえば、

イセへナナタビ クマノへサンド シバノアタゴへ ツキマイリ

という詩の場合でも、表面上は七七七五となっていますが、実は、三―四、四―三、三―四―五の比によって排列されているんです。

まさに、国語のリズムにおける「対比的要素」は、歌謡そのものの本質に即していると言えるんですね。

そう、俳句の形式美にしても、もし重要視されるものが音の強弱であるなら、五七五のなかに隠された音節数の価値は、全く無視されねばならないのではないでしょうか。

そして、ふと気づいたのですが、実は、この、三―四、四―三、三―四―五という構成比を文節に置き換えると面白いものが見えてきます。

イセへナナタビ(2文節) クマノへサンド(2文節) シバノアタゴへ ツキマイリ(2文節―1文節)

2文節の繰り返しと、2文節から1文節につながれた「頭でっかちの法則」でちゃんと構成されているんですね。

(* 文末に向かって、文節が小さくなっていくほど文は読みやすく締まる、というのが「頭でっかちの法則」です)

(* 文章表現における心地よいリズム感は〈4文節〉どのようにして〈2文節〉生まれるのか〈1文節〉)