主体(動作主)を中心とした論理的な表現にこだわらないのが日本語の特徴です。
主体不在の状況の推移を順次述べていき、最後に述語でまとめ上げるというのがその表現法になります。つまり、存在文ですね。
「病院で予防注射をしてきた」「美容院に行ってカットしてこよう」と普通に言うけれど、注射をしたり、カットしたりするのは話している当人ではありません。
あくまでも、「注射をする・カットする」という事柄を表現しているだけであって、だれが動作主であるかは文法上の問題にされないんです。
動作主にこだわらない言語ということは、当然、自動詞と他動詞の区分も厳密にはされません。
なので、日本語の動詞は名詞的性格を持っているとよく言われるのですが、それは、動詞の連用形にも見ることができます。
「動く/動き」「語る/語り」「遊ぶ/遊び」「嘆く/嘆き」「走る/走り」、これらは、まさに「動名詞」と言い変えてもいいでしょう。あの英語でさえ、動名詞(gerund)には自他の区別はありません。
たとえば、eating apple とか cooking apple とかいうときの(-ing)系は、それぞれ「生食用リンゴ」「料理用リンゴ」を意味する動名詞になります。
動作主や動作の対象は問題にされず、ただ、「食べること」「料理すること」を意味するんです。

川端康成「雪国」のなかに、あまりにも有名な文脈があります。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
まず、最初の文には主語がありません。トンネルを抜けたのは汽車なのか、私なのか、ハッキリ表現されていないんです。
汽車が国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。とすると、情緒が台無しになってしまう気がします。
さらに、リズムも悪くなりますね。これだと「汽車が、国境の長いトンネルを抜けると・・」と「、」が必要になります。
ちなみに、この「夜の底が白くなった」という語法は「夜の底の白くなりたる」の現代版です。
つまり、名詞的性格を持つ連体修飾節で、「夜の底の白くなりたる(あり)」という(あり)を含む存在分なんですね。
同じように、
公園を走っている(少年)
と、連体修飾節で説明するのが本来の日本語らしい表現なのだと、よく言われます。

いきなり、中心の「少年」を先に述べるのではなく、少年の周りの状況「公園・走っている」を先に説明するんです。
被修飾語を主名詞とよぶので、「少年」に向かって言葉が続いているように見えますが、そうではなくて、公園という風景を含むそのあり様を全体的に表現したいわけです。
ところが、これが英語の感覚だと、いきなり核心をついていくことになります。まず、なにより主体なんですね。
the boy running in the park 「少年! 公園を走ってるね」
a language spoken in that country 「言語! その国で話されている」