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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

無機質な言葉 書くコトでしか表現できない魅力ある文体 

読みにくさの魅力

明治期の近代以降、とくに戦後の現代において、欧文脈というものが日本語の文章に大きく影響を与えることになります。

欧文脈とは、つまり「翻訳調」と言い換えていいと思いますが、それは、あたかも英語などの欧文を翻訳したかのように感じられる文体のことです。

あくまで翻訳っぽく見える文体ですので、背後に本当の欧文がある直訳体ではありません。

その特徴は、文の組み立てや語彙の選択、およびその背後にある発想にあるんですね。

たとえば、翻訳調のわかりやすい例が無生物主語や連体修飾節が多用され表現されている文に多く見ることができます。

それは決して読みやすいわけではないのですが、意味をとろうと強く意識して読むことによって、文意がツルリと逃げていくことなく、鮮やかに印象を残していくのです。

読み応えというか、引っ掛かるような感覚でもって読み手の脳裏に強い印象を刻んでいくんですね。

翻訳調の文が多い作家として有名なのが、有島武郎、大江健三郎、村上春樹といったところでしょうか。

Ⓐしかも浅はかな私ら人間は猿と同様に物忘れする。四年五年という歳月は君の記憶を私の心から綺麗に拭い取ってしまおうとしていたのだ。

君の大食は愉快に私を驚かした。食後の茶を飯茶碗に二三杯続けさまに飲む人を私は始めて見た。

                       有島武郎(生まれ出づる悩み)

いかがでしょうか。ところどころに無機質感を、意図的に文章全体のなかにスパイスさせているのを感じます。

「四年五年という歳月は」「君の大食は」という「人」ではない「こと」が主語として認識の中核におかれ、逆に「私」が対象化されています。

これはもう英文の感覚ですね。日本語の会話では、まずこんな言い方はしません。

「君の大食は愉快に私を驚かしたよ」なんて、もし、面と向かって言われたら、ほとんどの人が「大丈夫かな、この人」と思うに違いありません。

ですが、書き言葉の物語世界として捉えたとき、こういった文体に魅力を感じる読み手も決して少なくはないはずです。

無機質な表現

ひとつの例として次にあげる村上春樹の文体なんかは、翻訳調で書かれていることを特に意識せず、日本語として自然に受け入れられるかたもいらっしゃると思います。

そう、私たちは英語教育を受けるなかで、「翻訳調」という表現を無意識に吸収してきているのです。

時代とともに洗練されてきた「翻訳調」という文体を、私たち日本語のネイティブは、もはや「自然な流れ」として受け入れ続けてきたのかも知れません。

緑の父親は二人部屋の手前のベッドに寝ていた。彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕をだらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもっと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。

                     村上春樹(ノルウェイの森 下巻)

一連の文章は、「深手を負った小動物」「点滴の針のささった左腕」など、独特の連体修飾節で表現されているのがわかります。

「小動物」というのは「little animal」でしょうか。日本語の文らしくするなら、「深手を負ったネズミかリスのようだった」と具体的な表現にしたほうがしっくりくるでしょうし、「点滴の針のささった左腕」という連体修飾は、「左腕に点滴をさし」という連用修飾にしたほうが自然に感じられますね。

他にも「これからもっとやせてもっと小さくなりそうだという印象」「注射だか点滴の針だかのあと」といった無機的な連体修飾節が文面のところどころに差し込まれています。

そのため「僕」の目から見た緑の父親への描写は、どこか客観的でドライなものになっていて、感情移入の程度も浅く、あくまで観察している感じが強くなっています。

きっと、無機質ながら存在感を感じさせる「モノ」として描くことで、歯切れのよい恍惚感を読み手に与えているに違いありません。