認知心理学の中核となる概念は「スキーマ」と呼ばれています。
スキーマは「知識のスキーマ」ともいうべきもので、多くの場合、自分が持っていることを意識することのない知識です。
たとえば3歳の幼児にふたつの「お絵かき」を見せるとします。
①(ぬいぐるみ)ウサギとクマが並んでジャンプしているシーン
②(ぬいぐるみ)ウサギがクマを押しているシーン
「ジャンプ」「押す」という動詞の意味は教えずに、まず「ウサギさんとクマさんがウーしているのはどっち?」と聞くと①と、ちゃんと答えます。
さらに「ウサギさんがクマさんをウーしているのはどっち?」と聞けば②を指さすんですね。
①の絵は、自分で何かする自発的な行為、②の絵は、主体が客体に何かを仕かける行為、つまり、自動詞文と他動詞文の区別を3歳児の時点ですでに頭で理解しているわけです。
主格「が」だけでなく、対格「を」が聴こえてきたら②の場面の行為なのだと、動詞の意味がわからなくても、それを区分けることが出来るんです。
そして、その幼児は、まだ知らない「動詞」に対して、その「スキーマ」を使って「動詞」の意味を推論し学習していくことになります。
その理解度は、やがて連体修飾節を難なく使いこなすというレベルにまで成長していくんですね。
たとえば、友達と一緒に歩いている途中で、「僕が通っている塾があそこだよ」と言ったとしましょう。
この場合「通っている」という動詞を使うのであれば、普通なら「僕はこの塾に通っている」というように、「通っている」の前に「この塾」のような名詞がなければなりません。
「僕が通っている」というフレーズでは、「どこに」という必要な要素がひとつ欠けていることに気づくわけです。
つまり、ひとつの動詞に対して格が幾つ必要になるのかという「スキーマ」が脳に沁みついているということなんですね。
だから、私たち日本語のネイティブは、瞬時に欠けている名詞を繋ぎ合わせ、連体修飾節で自然に表現することができるのです。
ただ、日常生活でそれをいちいち確認することは、まずありません。
「スキーマ」は外枠概念とも言われていて、これを意識できていれば、アウトプットの際に非常に有効的なんですね。

以前、書き手の表現位置が見事に示された名文の例として、正岡子規の詞をこのブログで取り上げました。
Ⓐガラス戸の外に据えたる鳥籠のブリキの屋根に月映る見ゆ
Ⓑ小庇にかくれて月の見えざるを一目を見むとゐざれど見えず
Ⓒ照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ
ここでは子規側の表現位置と、月、鳥籠の屋根、小庇などの位置関係が鮮明に歌を形づくっています。
たとえばⒶの場合、「鳥籠のブリキの屋根に、見ゆ」という子規の視点が「外枠」、つまり箱の外側になり、「月映る、見ゆ」という視点が箱の中身になるんです。
普通に立ってガラス戸の外を眺めれば「月」そのものが目に映るはずなのに、「鳥籠のブリキの屋根」を通して「映しだされている月」を見ている。
先に「ブリキの屋根」との位置関係を外枠表現にして出すことに意味があります。
時間差ではなくて、意識の確認の順として、「映る月」は後になるわけです。
読み手がⒶの詞を読み終えたとき、子規が病に倒れて寝たきりの状態だという認識がサッーと逆流する仕掛けになっているんです。
月を直接見ることはできない、「鳥籠のブリキの屋根」だけしか、視界に捉えることができないんだと。
そして、わかりやすくもう一例おススメしたいのが、長渕剛の「西新宿の親父の歌」という名曲です。
西新宿の飲み屋の親父に別れを告げて 俺は通いなれた路地をいつもよりゆっくり歩いている
すすけた畳屋の割れたガラスに映っていた 暮らしにまみれた俺がひとり映っていた
まさに、歌詞のなかの、このフレーズがこの歌を名曲に仕上げたといっても言い過ぎではありません。
「すすけた畳屋の割れたガラスに映っていた」が箱の外側です。主人公が立っている位置から見える風景を、先に外枠として投げだす。
そして、その後で「暮らしにまみれた俺がひとり映っていた」、「それは俺だった」と、映っている箱の中身を開けて見せる。
「暮らしにまみれた」という情緒あふれる連体修飾節。この曲をはじめて聴いた時、鳥肌が立ちました。