まだ午前中だというのに、うだるような暑さのなか、哲夫さんは自転車を走らせながら担当エリア内で営業活動に勤しんでいました。
自転車は、90年代当時、銀行員や保険のセールスが街を巡回するときにによく使っていた「大車輪」というゴツイ車種でした。
前の大きなカゴには皮の営業カバンが乗せられ、サドルのすぐ後ろに黒い四角の立方体の大きな缶が固定されたスタイルです。
哲夫さんがうろついていたのは大阪市中央区の「谷町」エリア周辺でした。この辺りは小規模の印刷工場が当時多く並んでいて、新規開拓のためパンフレット片手に一件一件哲夫さんは飛び込み訪問をしていたのです。

途中、坂を少し登ったところに公園があり、哲夫さんは休憩するために、自動販売機でコーラを購入してベンチで一息ついていました。
すると、向かいの小さな印刷工場の前から、一人のオバちゃんが哲夫さんに向かって笑顔で手を振っているのが見えます。
「えっ、あのオバちゃん俺に手を振っているのかな?」と、後ろやまわりを見渡しても他に誰もいません。
「お兄さん、お兄さん、ちょっと、ちょっと、こっちに来てくれへん、お願い」
「えっはい。僕ですか?なにかありましたか」と、哲夫さんは近くまで歩いて寄って行きました。
「暑いやろ~、ちょっと事務所で涼んでいきいな。冷たいお茶入れるさかい、なっどうぞ、どうぞ」
歳は50代前半といったところでしょうか、原田美枝子のような綺麗な顔立ちの人で、すごく人のよさそうな親切そうなオバちゃんだったそうです。
近づいてみると、印刷工場の様子は外から丸見えで、数人の従業員のそばで2、3台の印刷機が大きな音を立てて可動していました。
最初はやんわりと拒否していた哲夫さんでしたが、オバちゃんの押しは強く、お邪魔することになってしまいました。
「ちょうどよかったわ~。見たところ、お兄さん信用金庫の営業やろ。ちょっと相談したいことがあんねんわ~」
少し話を聞いていると、どうやらオバちゃんは、この家族経営している小さな印刷工場の社長の奥さんらしい。つまり経理担当に違いない。
そう、白いワイシャツにネクタイ、大車輪と皮の営業カバンというスタイルで、哲夫さんは奥さんに信用金庫の営業マンと思われてしまっていたのです。
つまり、オバちゃんは哲夫さんに、なにかしらの融資の相談をしたかったのでしょう。
「あ、いや。僕は信用金庫の営業マンではなくて、求人広告の営業マンなんです」と哲夫さんが言うと、奥さんは「えっなに、求人なに?」と真顔になりました。
中途採用を募集しようとする会社に求人広告を売り込むのが哲夫さんの仕事だと理解した奥さんは、「なんや、そうかいな~。ワタシはてっきり、あんたが信用金庫の営業やと思って声をかけてしもたんや、ごめんな~」と平謝りでした。
「でもなんか、呼びつけといて、このままでは悪いわ。じゃあ、うちも人は足りひんし、募集広告出すわ。でもあんまり大きくない(サイズ)やつにしてや」
「いやうちもな、新聞広告にちょこちょこ出して募集するねんけど、全然アカンねん。ウンともスンとも反応がないねん」
そして、哲夫さんがカバンから求人情報誌「ドーダ」を取り出し渡すと、奥さんはぶ厚い雑誌をペラペラとめくり出し、「いや、なんやのこれ。これ全部が募集広告かいな。そら~うちなんか誰も電話くれへんはずやな」と大笑いされていたそうです。

夕方、オフィスに戻った哲夫さんは、昼間の一件の工場名が記載された掲載契約書を上司の板尾課長に提出して報告しました。
「おっ、これは緒方よくやったな。谷町の印刷工場か。でも、昨日までの契約見込み先にこんな会社聞いてなかったけど、どうやって取ってきたんや」と、板尾課長は突然降ってわいたような契約を不思議に思い哲夫さんにたずねます。
「あっ、はい。他誌の掲載先じゃなくて、その、ローラー作戦していたときに、といいますかですね・・」
哲夫さんが説明しているその途中で板尾課長は突然立ち上がり、「うお~、緒方やりおった~。飛び込み新規や、ようやった。ざまあみろ、部長どうじゃい、こら~」と、興奮して大声で叫び出したのです。
もちろん松本部長は不在でしたが、事務員も含め50人ぐらい人がいるオフィス内は騒めきはじめました。
販売しているモノがモノだけに、ふらりと立ち寄った訪問先で、いきなり契約を結ぶというなんてことはほとんどあり得ないんですね。
これは業界で「即手」と呼ばれていましたが、ほとんどの営業社員が在職中に「即手」できることはありません。
だから同僚の営業社員たちは、「即手」した緒方さんに一目置くことになり、同時に悔しさが溢れてくることになります。
契約金額の大小ではなくて、自分がどうあがいてもできないことをライバルがやってのけるという現実を受けとめなければならないからです。
「いや、だから違うんですよ課長。公園の前で休憩していたらですね、」と、さらに哲夫さんが説明を続けようとすると、板尾課長はまたそれを遮るように、
「いや、いや、いや~、いつかお前はこういう仕事を成し遂げてくれると信じていた。たまに声がボソボソと聞こえにくいときがあるが、それがまたいいんだろう」「声が聞き取りにくいために相手は必死に聞き取ろうとするからだ。だから、それが相手の意識をひきつけ集中させることにつながるんや」と、オフィス中に聞かせるように大声でまくし続けるのです。
哲夫さんが本当に言いたいことは、自身の長い営業経験から板尾課長もおよそのことはわかっていました。
たぶん偶然に助けられた契約かも知れない。でも、そんなことはどうでもいい。それもこれも全部含めておまえの手柄だと褒めてやりたかったのです。
こんな救いのない職場のなかで、部下が契約を取ってきたときぐらい、おもいっきり騒いでやろうじゃないか、その気にさせてやろうじゃないか。そんなふうに思う板尾課長なのでした。 (つづく)