あらかじめ、述語に対する書き手の気持ちを示すことで、文の内容の方向性を示す役割を持つ品詞を、文法用語で「誘導副詞」と呼びます。
「せっかく」「あんがい」「とうぜん」「あいにく」「もう」「ずいぶん」「さすが」といったように、誘導副詞は文頭に出現し、文全体の意味や文末で締める述語のタイプを予告する働きを持つんです。
上に並べた言葉は誘導副詞のなかでも、「評価副詞」と区分される類になります。
評価副詞が使われたセンテンスには書き手の心理が表現されますので、モダリティ表現としてテキスト全体にも大きく影響を及ぼすことになるんです。
「態度的モダリティ」と呼ばれるこの表現が使われたセンテンスには、「つまり、総合的に何が言いたいのか、どう思っているのか」という問いに対して、その答えとして纏め上げなければならない内容が含まれているからなんですね。

日常会話においても、「せっかく。」「さすが。」というように、一言で会話を済ませられる場面も結構見られます。
じつはこんな風に「話し手の気持ち」をさりげなく、しかもはっきり表現することのできる言葉は他の言語にはあまりなくて、日本語にみられる大きな特徴のひとつなんです。
欧米語や中国語といった言語では、日本語とは違って主観的意義には意外と冷淡で、むしろ対象的意義にこだわるんです。
主観的モダリティよりも具体的事柄を優先する言語などだと言い換えていいかもしれません。
たとえば、比較すると、人称代名詞の表現にその特色の違いが反映されるのを見て取れます。
日本語の場合、一人称代名詞でも非常に多彩な表現がされるんですね。
わたくし わたし あたい わて わし 僕 俺 ・・・
といったように、話す相手によってさまざまな言葉が選ばれることになるのですが、それは話し手の主観、判断によって決まります。
一方で、英語の場合は「Ì(アイ)]、フランス語では「je(ジュ)」、中国語では「我(ウォ―)」といったひとつの言葉しか存在しません。
つまり、これらの言語では、複雑な人間関係の組み合わせに対応するという意識はなくて、あらゆる人間関係の中から、第一人称、第二人称という対象的な意義だけを抽象し、その対象的な意義に「I・you」という言葉をあてがうだけなんです。
大切にされるのは「コト」概念のほうなので、主体的な意義は捨象されるんですね。
ただ、そのどちらが優れているという問題ではなく、そこには言語の体質の違いがあるのです。
長所は同時に短所でもあると言われるように、主体的意義に温かな日本語では豊かな表現が可能となる一方で、法律の文章など、主体的意義なんて捨ててしまわなければならない文章に対しては、そのままでは、なかなかなじむことができません。
しかじかの罪を犯した被告をせめて二年の刑に処する。なんていう法律文はあり得ないのです。