文の集合体である「文章」。それは、大きくふたつのタイプに分けることができます。
まず、ひとつは描写型の文章で、小説やエッセイなどに典型的に見られることが多く、ある場面のなかで誰かの視点をとおして描かれていくという特徴を持つ形になります。
もうひとつのタイプは、いわゆる論説型。場面はかならずしも伴うことはなく、書き手の考え方や主張を論理的に示していく表現ですね。
それぞれの概念の区分として、この「場面」を伴うか否かというところが、じつは、重要なポイントなんです。
まず、描写文が展開していくときに必要な推進力は「時間」という概念だと言っていいと思います。
ある場面のなかで起こる一連の描写を理解しようとするとき、「それで?」「それから?」と読者は問いながら、後続文脈に来る内容を探りつつ、文字を追いかけます。
ですが、その対極に位置する論説文はどうかというと、そこに場面という制約はなく、時間軸も存在しない場合がほとんどなんですね。
では、論説文が展開していく際のもっとも重要な推進力とは、いったい何によってもたらされるのでしょうか。
優れた物語に出会ったとき、次になにが起こるのだろうかというドキドキ感、ワクワク感を読者は胸の内に抱きます。
物語世界で読者を引き込むことができるなら、確かな法則がそこにあるなら、論説文においても同じように読者を夢中にさせることができるはずなんです。

まずここで、かつて、日本屈指の名ジャーナリストと呼ばれた優れた文章の使い手が遺した論説文を見てみましょう。
Ⓐ別にクイズをやる気もないし、次の作品の著者名を記せ、というテストをやるつもりもない。だが、以下にあげる作品がこの世に出ることがなかったら、戦後日本の文学の風景はかなりちがったものになっていただろう。
Ⓑ「永遠なる序章」「仮面の告白」「真空地帯」「長い旅の終り」「落ちる」「霧と影」「世阿弥」「憂鬱なる党派」「青年の環」「なんでも見てやろう」「悲の器」「夏の砦」「笹まくら」・・・。
もちろん、これらの作品は椎名麟三、三島由紀夫、野間宏、中村真一郎、多岐川恭、水上勉、山崎正和、高橋和巳、小田実、辻邦生、丸谷才一といった戦後文学を代表する人たちによって書かれたものであり、作品についての評価と名声はその人たちに属する。Ⓒだが、作品が書かれることと、世に出ることとの間には介在者がいる。一般に編集者と呼ばれている存在である。彼らはただ介在しておればよい、というものではない。
Ⓓ文学青年という語があるように書きたいと思う人は多くいるなかで、世に問うに価する作品かどうかを識別する能力が要るし、場合によってはそういう作品に仕上げるための助言、強制(書き直し)すら必要である。その一方で、才能は明らかなのにそれを作品に結実できないでいる潜在的書き手に刺激を与えて、書かせる能力も求められる。仮にこれらの作業が全てうまくいったとしても、その結果を読者が受け入れる、つまり売れるとは限らない。秀れた編集者を抱えた出版社がしばしばつぶれることがあるのはこのためである。幸い、世間の評価が高い作品を送り出すことに成功したとしても、その栄光は専ら著者のものだ。
Ⓔそういう世界で長らく言われてきたのに「編集者=黒子論」というのがある。観客の目を惹くのは舞台の役者たち(文楽では人形)だが、そうなるためにはさなざまな裏方の支えが必要であり、やむを得ず舞台に出る場合も黒衣をまとって透明な存在に徹するのが黒子である。編集者とはそういう役回りであり、それに徹するべきだという論である。
Ⓕ冒頭にあげた作品群は全てあるひとりの黒子が手がけた作品の一部である。
どの編集者も、これだけの仕事ができるわけではないから、偉大なる黒子と言えるだろう。先日、80歳で世を去ったこの伝説的人物に対して、彼を知る人たちの間からは「志を持った編集者」「最後の編集者」といった献辞が捧げられた。
その名を坂本一亀という。~中略~
Ⓖ「芸人は親の死に目に会えない」という悲哀を、自分は芸人ではないと思っていた長男、龍一氏はツアー先の欧州で味合うことになった。 (筑紫哲也「戦後日本文学の偉大なる黒子」2002 より)
この筑紫哲也が遺していった名文章は、いわゆる「謎解き型文章」と呼ばれるものです。
前文で「何だろう」と思わせておいて、後文で「タネあかし」をする構成になっていて、謎かけをし、その答えを出すというパターンが繰り返されています。
そうすることで、次の文、次の文へとひっぱる力を持たせ、だんだんと核心に迫っていく仕掛けになっているんですね。
まず、Ⓑの段落では、戦後日本の文学に大きな影響を与えたという作品名が列挙されています。
読者は、これらの各作品の著者を自分なりに予測し、その答えを確認しながら、何のために筆者がこのような作品を列挙したのか、どういう意図でカテゴライズされているのか、その共通性を探そうとします。
ですが、直後には答えは明らかにされず、その答えはⒻの段落に読者がたどり着くまで分からないようになっているんです。
Ⓑの答えがないままⒸでは「ただ介在しておればよい、というものではない」と示され、次に読者は介在以外の編集者の役割りはなにかと予測することになります。
Ⓓで役割りの詳細は明かされるのですが、続いて、筆者はⒺの段落にくると、今度は「編集者」を「黒子」と新たな角度から切り取ってきます。
その答え、つまり「黒子」という「語」そのものの意味の詳しい説明と、「編集者=黒子」という関係の説明がⒺで解かれた絶妙のタイミングで、
「冒頭にあげた作品群は全てあるひとりの黒子が手がけた作品の一部である」
という核心が示され、これまでの全てが繫がり、全ての謎は氷解することになるのです。
そして、結末では、まったく予想もしていないⒼが付加されて文章は閉じられます。
「長男、龍一氏」という言い方で、坂本一亀氏が、あの有名な坂本龍一氏の父親であったことが最後に明かされて終わるのです。
このように、この文章は情報の空白部分を予測によって意識させ、そのあとの文で、その情報を解き明かすという仕組みになっています。
文章の全貌は、そのサイクルを繰り返すことで、徐々に明らかになるように出来ているんです。
そう、時間軸が存在しない論説文の場合、文章が展開していくさいの最も重要な推進力は、この「情報の空白」なんですね。
「それで?」「それから?」ではなく、「どうして?」「どうやって?」という問を繰り返しながら読者は文章理解を進めていくわけです。
書き手がこの「情報の空白」を自在に操れるならば、知らず知らずのうちに読み手を夢中にさせることが出来るに違いありません。
つぎに何がくるのか、予測を繰り返しながら謎は徐々に解けていく。
読み手は、まるでロールプレイングゲームのような感覚に陥いることになるのです。