「自動車がブィ―と発進し、まがり角でキキキィ―ときしむ。ドアがチャッと開くと、銃を構えた男がタッとおりてきて、ドキューン、ズキューンと銃弾を撃ち放つ。銃弾はビルの窓ガラスをビシッと射抜き、標的の額にズバッと、めり込んだ」
音そのものと、その音を人声に変えることで生まれたオノマトペ(擬声語)という表現。
コトバの表現をより豊かにする力をもっているのですが、文学者たちには、あまり評判はよくないようなんです。
とくに三島由紀夫なんかは、親の仇にでも出逢ったようにオノマトペを叩いているんですね。
擬音詞の第一の特徴は抽象性がないといふことであります。それは事実を事実のままに人の耳に伝達するだけの作用しかなく、言葉が本来の機能をもたない、墜落した形であります。それが抽象的言語の間に混ると、言語の抽象性を汚し、濫用されるに及んでは作品の世界の独立性を汚します。 (『文章読本』 第7章より)
じつは、オノマトペに使われる「カタカナ」というのは、発明されたときの、暗い出生の秘密(?)があるんです。
「カタカナ」の始まりのときの役割とは、漢文を訓読する際の一種の「補助文字」に過ぎなかったのです。ようは、フリガナですね。
だから、ごく最近までは、「書き言葉としてはまだまだ半人前だ」と、国民に日本語として認めてもらえなかったわけなんです。
ですが、三島の逆を行く、オノマトペの究極の使い手である天才・宮沢賢治の作品というのも、この世には多く遺されています。
宮沢賢治は擬声語を巧みに操り、山や、光りや、風を生き物のように具体的に表現することに成功しているんです。
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつぽつぽつとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。(宮沢賢治 「やまなし」)
「つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が・・」というこの描写は、本当に、見事だと思いませんか。
「つうと・・」という音が「ひるがえして」という動詞に向かってすばやく係っていきます。
間にある「銀のいろの腹を・・」という文節が読者の脳裏を瞬間的に駆け巡る仕掛けになっているんですね。
「つうと・・・ひるがえして」
その身をよじりながら魚が回転するさまが、まさに、この目に鮮明に飛び込んでくるようです。
物語世界を出来るだけ生き生きと具体的に語って、読み手を自分の表現世界に引きずり込みたいのであれば、オノマトペをどしどし使っていかなければならないんですね。
抽象性がないからこそ具体的なのであり、具体性がそこにあるからこそ、文学表現が有効となるのでしょう。

「言葉」というものは本来、その言葉の「音」と「意味」との間にはなんの関係性も持ちあわせていません。
たとえば、「地上に集まった水の流れていく道筋」という意味を、「カワ」という音で表現するのですが、これはあくまで約束事、習慣としてそう読んでいるだけなんです。
生まれたときから現在までの学習、記憶として、「地上に集まった水の流れていく道筋」を「カワ」と認識しているに過ぎないのです。
ですが、オノマトペというのは、音と意味との間にある程度の合理的な結びつきをもたらします。そう、感情にダイレクトに強く働きかけるんですね。
まさに、普通のコトバでは表現できない描写力や説明する力を持っているといえます。
単独では表現力の弱い「動詞」に寄り添って、「動詞」の表現をより具体的に富ましめ奥行きを与える究極の副詞、それがオノマトペなのです。