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日本語の名詞的性格 補足

前回の記事で、日本語の動詞というのは名詞的性格を秘めているという話をしました。

たとえば、ひとつの視点として、動詞の他動詞と自動詞の区分に注目して見てみると、理解しやすくなると思います。

まず英語の場合、文の主要語は主語であり、その後すぐに、動作・活動を表す述語動詞が続いていき、さらに、その動詞の内容に影響を受けるものがあれば、目的語として、その後さらに続いていくことになります。

だから、目的語があれば他動詞、なければ自動詞と、動詞を明確に区分することができるんですね。

ところが、事柄を一つの場面と捉え、これを絵画的に描写する日本語の文では、主語(動作主)を特別に重要視することもないので、英語とは違って、主語と目的語の対立というものは存在しないのです。

辞書を引くと、「寄る」は自動詞、「寄せる」は他動詞となっています。

「車をわきに寄せる」は他動詞でもよしとされ、「岩に寄せる荒波」「お宅にも寄せていただきます」の用例は自動詞と認められているんです。

「を」をとれば他動詞という基準は、「空を飛ぶ」「富士山を登る」といった移動を表す動詞には適用されません。「飛ぶ」「登る」は自動詞です。

さらに、「ドイツ人にドイツ語を教わる」の「教わる」は、なんと、他動詞とされてる辞書もあれば、自動詞とされてる辞書もあるんです。

なぜ、このようにあやふやなことになってしまうのかというと、日本語の動詞は動作主を考えずに用いられるために、英語式の自動、他動の区別になじまないからなんですね。

そう、動作主を特別視しない日本語の表現では、動作主とセットになっている「動詞」の働きに対しても、また、同じように特別視しないということなんです。

「話す」を「話し」、「動く」を「動き」といった連用形で生み出される動名詞が多用されたり、「こと」「もの」「とき」「の」といった言葉を動詞の語尾につけて名詞化された形式名詞文が、ひとつの文章に必ずいくつも使われるのが日本語の特色になります。

つまり、動詞を名詞化させよう、させようと傾いていく性格を持っているのです。

英語のように、主語+動詞というしっかりした枠組みをもたずに、多分に「談話文法」的説明を必要とするのが日本語です。

統語論にすべてを依存するのではなく、意味論や語用論の助けを必要とする面が大きいんですね。

たとえば、次の歌のように、情景の構成素を周辺的なものから中心的なものへと、ただ並列的に挙げている典型的な日本語文の例を見てみましょう。

行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一片の雲

まさしく、この歌は日本語の発想法の順序の通り構成されているといえます。

まず「行く秋」で時を示し、「大和の国」で所を示す。そして、「薬師寺」から「塔の上」へと視点を導き、そこにある「一片の雲」に焦点があてられています。

文法的には、すべてが「一片の雲」の修飾語句になっていて、書き手としては「一片の雲」を明確に意識し書きはじめているはずです。

ですが、読み手の捉え方としては、平面的なイメージとしてそれぞれの情景を受けとめているのではないでしょうか。

この歌を味わう読み手の意識は、決して修飾語と被修飾語の論理的な結合関係に注目しているわけではないのです。

「の」によって結ばれているこの歌の自然の流れは、少しも理解を妨げるものではありません。

むしろ、名詞や名詞句の結合からなる表現形式が日本語らしさの大きな特色になっているんですね。