こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

パラレリズムの響き 読点「、」で区切られた文節

歯切れのよいスッキリした文章を書くのに最も有効的なのがパラレリズムによる繰り返し表現です。

「見たり、聞いたり、試したり」とか、「北は北海道から南は九州まで」といった表現は口調がよく、リズムも感じとることができます。

大ベストセラーとなった本多勝一「日本語の作文技術」、その中の第9章(リズムと文体)で、一級の書き手たちが遺した名文が例文として掲載されているのですが、それらには、このパラレリズムが多く使われているんですね。

木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。  島崎藤村(夜明け前)

「あるところは~道であり、あるところは~岸であり、あるところは~入り口である」というパラレリズムが使われた文豪の作品から、

枯れ葉のにおう山の遍路道を歩いてみたい、潮風に流れるはぐれトンビを追って海辺の道を歩いてみたい、そんな思いにかられた時から現代のお遍路は始まるのだろう。  辰濃和男記者(新風土記・高知県)

といった名ジャーナリストの名文まで、超一級の文章が例としてあげられています。

特に(新風土記・高知県)の場合、「~山の遍路道を歩いてみたい、~海辺の道を歩いてみたい」とパラレリズムで投げ出したあと、「そんな思い」で括りあげ、「現代のお遍路は」と短い題目を後ろに持ってくることで絶妙なリズム感を醸し出しているのがわかります。

これを、題目や主語を意識しすぎて文の頭に持ってくると、どんな風になってしまうのか、下記に見てみましょう。

現代のお遍路は枯れ葉のにおう山の遍路道を歩いてみたい、潮風に流れるはぐれトンビを追って海辺の道を歩いてみたい、そんな思いにかられた時から始まるのだろう。✖

全く話にならないのがわかります。主題だからといって短い文節を文頭に持ってくるとリズム感がなくなってしまうんですね。

さらにパラレリズムの好例をもうひとつ見てましょう。

京都で学問をし、大阪で金をもうけて、神戸に住む、それが関西人の理想の生活だと作家の田辺聖子さんが書いているのを読んだ。  酒井寛記者(新風土記・兵庫県)

この文が流れるように読める理由はどこにあるのかというと、じつは、パラレリズムの他にもひとつふたつ工夫されているところにあります。

たとえばここで「・・・金をもうけて」の「て」一字だけを削ると、リズムに狂いが生じます。

反対に「・・・学問をし、」のあとに「て」一字を加え、「学問をして、・・もうけて、」と「て」を二度つづけても、やはり狂いが生じるんです。

そう、たった一字のことで、論理に全く変わりはないのに読みにくくなってしまうんですね。

 

木曾路はすべて山の中である

 

文を区切るときに使うのが「中立法」ですが、「中立法」には、「し」形と「して」形の2種類の用法があります。

「学問をし・・」が「し」形で、「金をもうけて・・」が「して」形です。

中立法どうしが並べられる場合、法則がそこに存在します。

「して」形 < 「し」形(:連用形)

つまり、「し」形は、「して」形よりも大きな区切りとなり、「して」形を包み込むのです。

器を傾けて水分を捨て、長さ1センチに切ったミツバをのせます。

この例では、「捨て」(連用形)が、「傾けて」(して形)よりも大きな区切りになっているんです。

だから読点「、」は「捨て」(連用形)のあとに打たれています。

さらに、たとえば、「して」形と「し」形をでたらめに並べてみたとします。

~して~し~し~して~して~し~した。

この場合、もっともリズミカルなのが次の通りです。

(~して~し)(~し)(~して~して~し)(~した)。

つまり酒井記者の文でいうと、「京都で学問をし、大阪で金をもうけて、神戸に住む」というパラレリズムのなかには、「京都で学問をし 〇 大阪で金をもうけて神戸に住む」という国語リズムが隠されているんです。

「京都で学問をし」と一度短い文節を放り投げて「、」で区切り、本来なら、パラレリズムでなければ、「大阪で金をもうけて(3文節)神戸に住む(2文節)」といった(頭でっかちの法則)によって一息に読み切る。

(* 3文節から2文節へと、大きい文節から小さい文節があとに続く(頭でっかちの法則)で書かれた文は息継ぎの必要がなく一息で読めるのです)

つまり、読点を区切りにして、文節の「対比的要素」を表現することによりリズム感を出しているんですね。

さらに続く文は、「それが関西人の理想の生活だと(4文節)作家の田辺聖子さんが(2文節)書いているのを(1文節)読んだ(1文節)」という長い(頭でっかちの法則)で構成されています。

つまり、この文は3つの長短の文節を散りばめたリズムで書かれているのが読み取れます。

3つの文節による美調のリズム、それはまるで(五・七五・七七)といった和歌の美調から取り込まれているかのようなんです。

五調単独のリズムは短い文節の放り投げであり、七五調のリズムは頭でっかちの法則による文節の固まり、そして七七調のリズムに秘められた表現こそが、パラレリズムによる美調的要素なのではないでしょうか。

もちろん、すべてが単純に組み合わされているわけでもなく、実際は複雑な構成比をもとに表現されているのでしょうけれど、短い文節の放り投げや、パラレリズムのリズムがあってこそ、頭でっかちの法則で書かれた文節のスピード感も生きてくるに違いありません。


ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ  (古今集・百人一首33番/紀友則)

ひさかたの(放り投げ) 光のどけき―春の日に(2節―1節 頭でっかち) 静心なく 花の散るらむ(2節―2節のパラレリズム)


雲のうへも 暮らしかねける春の日を ところがらとも ながめつるかな  (枕草子/清少納言)

雲のうへも(放り投げ) 暮らしかねける春の日を(2節―1節 頭でっかち) ところがらとも ながめつるかな(2節―2節のパラレリズム)

 

つまり、文に読点「、」を打つのは、ひとつの文のリズムを形成するためであり、文の終わりに句点「。」を打つのは、文のかたまりとなる文章のリズムを形成するためにあるような気がしてならないのです。