以前、このブログでは、「のだ(んだ)」という言葉は「焦点」を示す表現なので、そこに「前提」がないと使用出来ないんだと言うことを述べました。
「のだ」は「焦点」、つまり「答え」を伴う表現なので、それまでに「問い」となる「前提」が話題に上がっていないとダメなんです。
Ⓐ昨日は会社を休みました。Ⓑ熱があったんです。
(前提)昨日は会社を休みました。【なぜ休んだかというと】(焦点)熱があったんです。
ⒷはⒶの理由を説明しているんですね。「Ⓐ。それはどうしてかというとⒷ」という関係が成り立っています。
実は、この「のだ」の他にも、「前提」がないと使えない文末に使用される言葉があります。
しかも、それは日本語で非常に頻繁に使われる表現なんです。

みなさん意外に思われるかもしれませんが、その言葉とは、「ない」という否定表現なんです。
否定の「ない」は2種類あって、「走らない」のように動詞のあとについて助動詞として機能する場合と、「美しくない」といったように形容詞に続き形容詞として使われる場合があります。
国文法では形容詞を否定する「ない」を、なんと形容詞と定義しているんですね。
まあ、それはともかく、大切なのは「否定」という表現は一体どういう性質を持つものなのかということです。
否定は「肯定」と対立するもので、肯定文が「ある事柄」が成立したことを表すのに対して、否定文は「ある事柄」が成立しなかったことを意味します。
そもそも、言葉というのは「ある事柄」が起きたということを誰かに伝達するために使われるのですから、文を使うとしたらまずは肯定文が選ばれるはずなんです。
なので、ある事柄が「起きなかった」という否定文が使われるには、肯定文とは違った特別の場面が必要になります。
分かりやすく言うと、たとえば、友達同士が一緒にあるコンサート会場に来ていて、一人がもう一人に話しかける場面があったとします。
Ⓒこの会場に総理大臣が来ているらしいよ。
この場合、ちょとした事件なので話し手が聞き手に伝える価値のある情報だと考えられます。
ですが、
Ⓓこの会場に総理大臣は来ていない。
と、突然話しかけたとしたら聞き手はびっくりして、「当たり前だろ。何いってんの」と言うに違いありません。
Ⓓが会話として成立するためには、「総理がこの会場に来ているかもしれない」という「前提」がそれまでの会話で交わされてなければならないんです。
文として考えた場合、肯定文はどんな文であれ、単独で何らかの情報を有しています。
常識的な内容でなく、めずらしい内容であれば情報価値は高まります。
価値の高低があったとしても、単独で情報を有しているということは肯定文に共通してみられる性格なんですね。
ですが、否定文の場合はそれ自体では何らの情報も持たず、対になる肯定文を否定することで初めて表現としての存在意義を持つことができるのです。
対になる肯定文が常識的に想定される内容だったとしたなら、それを否定する否定文に価値が生まれるというわけです。
肯定文が「前提」、否定文は「焦点」です。そう、「のだ」という言葉と同じ職能を「ない」という言葉は持つんですね。
私は作家・伊集院静のエッセイが好きでよく読むのですが、「ない」という文末表現がほんとによく出てきます。
各段落が「ない」の表現で「焦点(答え)」として締めくくられていて、何とも言えない余韻を感じさせてくれるのです。
私は人が長蛇の列を作っているところには絶対に並ばない。
国を作りかえるのは、そんな生易しいことではない。
人間も世の中も、そう簡単なものじゃないからね。
情緒はいくらお金を出しても買えるものではない。
子育ては決して順調にいくものではない。
どんな親子でも、大なり小なり問題なしではすまない。
自分がどうしようもない人間だと分かっていれば、おかしな打算もない。
(伊集院静「無頼のススメ」)