日本語の文は基本的に述語に助動詞が足されて終わるのですが、ときに、「のだ」「のです」という言葉で括られる場合があります。
この「のだ」という形式は非常に頻繁に使われます。
「買ったんです」の「んだ」も「のだ」とまったく同じ意味合いで、話し言葉では「んです」のほうがむしろ多いくらいです。
「ん」というのは「の」がつまった(no→n)形なんですね。
「のだ」「んだ」共に、「わけだ」「からだ」という説明の言葉に置き換えられる場合も多く、説明のモダリティ表現とされているんです。
A)律子は結婚するようだ。
B)律子は結婚するようなのだ。
「のだ」という形式は無理をすればほとんどの文につくことが出来るのですが、じつは許容されるには一定の条件が必要とされます。
一定の条件とはどういうことか。次のような会話文で見てみましょう。
C)裕子 「今日のお昼、何食べに行くの?」
ヒロシ「今日は龍鳳でサンマーメンかな」
D)裕子 「今日のお昼、何食べに行く?」
ヒロシ「う~ん、そうだなぁ、何か麺類が食べたいなぁ?」
Cの「のだ」がついた質問の場合、裕子は、ヒロシの頭のなかにすでに答えが用意されていると予測した上で質問しているのがわかります。
つまり、何を食べたいのか決めているヒロシに対して裕子はたずねているんです。
一方で、Dの文の場合は、まだヒロシの頭のなかに何が食べたいのか決まっていないと裕子は踏んでいるわけです。
だから、自然に「のだ」を使った質問にはならないんですね。
もう一例見てみましょう。
E)(窓を開けて地面が濡れているのを見て)そうか、きのう雨が降ったんだ。
この場合、「地面が濡れている」がヒントになって「きのう雨が降った」という答えが話し手の頭のなかに導きだされているのがわかります。
最初に話し手は地面が濡れているのに気づくのですが、その瞬間には「どうして」濡れているのかまでは頭はまわっていません。
一呼吸おいて、「そうか、雨が降ったのか」と気づくことになります。
この「どうして」という「問い」に対する答えが頭に浮かんだとき、話し手は「のだ」をつけて示すのです。
「のだ」というのは「答え」につく表現なんですね。
この「地面が濡れている」にあたるのが「前提」と呼ばれる要素で、導き出された「どうして」の「答え」が「焦点」になります。
話し手の頭のなかですでに理解している「前提」がある。その前提に導かれるように、新たな「答え」、つまり「焦点」が話し手のなかに喚起されていくわけです。
そして談話の次の展開では、その「答え」が「前提」と変わり、今度はまた新しい「焦点」が導かれていくことになります。
まさに、「問い」と「答え」を繰り返しながら談話は続いていくんですね。
文にした場合、それまでの文脈や、文の前半部分にすでに理解してる「ヒント」が書かれていて、文の最後に「答え」と共に「のだ」が書かれるわけです。
そう、ひとつの「文」も、複数の文で構成された「文章」も、この「前提」と「焦点」の組み合わせで構成されているんです。
たとえば、一つの文の場合、
F)男なら、粋でやさしい馬鹿でいたいもんだ。
「男なら」が前提になっていて、「粋でやさしい馬鹿でいたいもんだ」が焦点になります。
男なら、(どうありたいかというと)、粋でやさしい馬鹿でいたい
前提となるには、ここまでの先行文脈で「男なら」が話題になってないといけません。
「男ならこうありたいもんだ」「男はどう生きるべきか」というように、すでに取り上げられていないとダメなんです。
では、テキスト展開における「のだ」はどういう仕組みになっているかというと、
G)帰りにびしょ濡れになりました。急に大雨になったんです。
「びしょ濡れになった」が「前提」で、その理由を説明する「焦点」が「急に大雨になった」という答えです。
この呼吸があって、はじめて「のだ」は使われます。そこに「前提」がないと「のだ」を使うことは出来ないんですね。