こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

「親を頼る」か「親に頼る」か?

文学的な表現

ときおり、小説の物語に出てくる異質な表現、それは、「文学的な表現だね」などと、よく言われます。

実際に読んでいて、「あれ、これって文学的な描き方だな」と思わされることも少なくありません。

独創的な発想で描かれた、その作家の表現を読んでいるとき私たちは、「何が書かれているか」よりも、「どう描かれているか」という文体表現そのものを味わっていると言ってもいいのではないでしょうか。

たとえば、それは、助詞がひとつ置き変えられた文を読んだだけでも感じとることができるんです。

Ⓐそのはんかちは、苗子の涙にぬれていた。 (川端康成 古都)

ごく自然な文章ですが、「涙で」ではなく、「涙に」とされているところに、何か引っかかりを覚えます。

こういった微妙な表現の違いだけでも、読み手である私たちに文学的な印象を感じさせるのです。

たとえば、

Ⓑ① 雨でそでがぬれる。

Ⓑ② 雨にそでがぬれる。

というふたつの文を比べてみると、明らかにⒷ① 雨でそでがぬれる。のほうが自然な感じがします。

格助詞「で」というのは原因を表す用法があるので、「食べ過ぎでお腹が痛い」とは言いますが、格助詞「に」を使った「食べ過ぎにお腹が痛い」という言い方をほとんどの人はしません。

でも、Ⓑ② 雨にそでがぬれる。の場合は、むしろ文学的な表現の感じがします。この違いは、どこからくるものなのでしょうか。

格助詞「に」の職能

「雨に」に使われている格助詞「に」という言葉は、センテンス内でさまざな働きをもちます。

机の上に本がある」の場合には「場所」を表し、「駅に着く」であれば「到着点」を指します。

さらに、「裕子に花を贈る」であれば「受け手」、「6時に起きる」であれば「時点」、「医者になる」であれば「変化の結果」を表すというように、ちょっと見ただけだと無関係のような気がするいろいろな職能をもっているんです。

ですが、これら「に」の働きには、間違いなく、ひとつの共通点があります。

ピックアップしてみると、「到着点」・「受け手」・「変化の結果」・「時点」・「場所」の5つの表現ですね。

2つ目の「受け手」というのはモノが到着する「到着点」、3つ目の「結果」も、事柄が変化することによって生じた事柄の「到着点」と見なすことができます。つまり、ここまで3つの共通点は「到着点」ということになります。

残るは「時点」と「場所」ですね。

6時に起きる」という事柄の「に」は「時点」を表しているのですが、これを深く掘り下げると、「誰かが起きる」という事柄が全体として起きる「時間的な場所」と考えることができます。それは、「6時」という到着点です。

では、「机の上に本がある」という、存在の「場所」の場合はどうでしょうか。「時間的な場所」ではなく、モノが存在する「場所」です。

たとえば、あるモノがある場所に存在していれば、それがどれくらい長い間続いたとしても、その間の各瞬間でも同じように存在しているわけです。

ということは、こういう事柄の全体と、その各部分は同じだという理屈になるはずなんですね。

「本」はすでに「机の上」に到着していて、そこまでの各瞬間のどこかで到着していたということです。

ですから、「机の上に本がある」という場合の「に」についても、事柄の全体が起きる「場所」を表している働きがそこにあると考えられるんです。

つまり、「に」の持つ働きの共通点とは「到着点」を表しているのだと言っていいのかも知れません。

「事柄の全体を(最終的に)成立させる場所」、それが格助詞「に」の前につく名詞の特徴だといえるのです。

ここでわかりやすく見てもらえるよう、(記事タイトルに使用した)似た2つの表現によって話し手の述べようとする内容がどう異なるのかを見ていきます。

Ⓒ親を頼る

Ⓓ親に頼る

これはどちらが正しいかといった問題ではありません。ですが、言わんとする事柄にあったほうの言い回しを話し手は選択するはずなんです。その違いとは何か。

まず、「頼る」という述語から派生した言い回しで、格助詞「を」で書かれた例文で見てみましょう。

「進学のために親を頼る」「就職先探しに恩師を頼る」「下宿探しに友人を頼る」「先輩を頼って上京する」

頼られるということは、その目的遂行の肩代わりをしてやることだから、当然「Aを頼る」のAは、当人に代わって目的遂行する立場、すなわち人間の場合がほとんどです。

では、「Aに頼る」という格助詞「に」を使った例文の場合はどうでしょうか。

「行き先をカーナビに頼る」「歩くときは盲導犬に頼る」「交通手段はタクシーに頼らざるを得ない」「杖に頼って山道を行く」

行うべき行為や作業Bがあって、自力のみでは実現が困難な状況にあるため、Aを手段として利用する。

Aは自力を援護する目的遂行のための手段や道具であるため「Aに頼る」の場合はモノが使われることが多いのです。

「Aを頼る」の場合は、その相手に全面的に寄りかかり、相手に丸ごと代行してもらうということです。

一方で、「Aに頼る」は、自力では不十分なところをAを利用して実現する。最終的にAを頼るということです。「頼りにする」という意識の最後の「到着点」がAなのです。

「雨で」ではなく「雨にそでがぬれる」と書くことで、書き手の意識は「そで」ではなく、「雨」に向いていることがわかります。

そう、書き手の意識の「到着点」は人工的な「そで」ではなく、大自然がもたらす「雨」へと向いているんです。

Ⓐそのはんかちは、苗子の涙にぬれていた の場合も、「はんかち」が濡れているのはどうでもよくて、読み手が意識させられるのは「涙」なんですね。

だから、どこか気取った文学的な言い回しに聞こえてくるのです。

さらに、「雨にそでがぬれる」を「雨にそでをぬらす」といったふうにすれば、頼一層、文学ムードが漂ってきますね。