こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

文章を構成する対比概念  その対比を巧みに描くことが出来れば文章は踊り出す

自然と人間

「踊る文章」、作家の井上ひさし氏は、自然と人間との対比が見事に描かれている文章をこう呼んでいます。

自然と人間とを同時に捉えるということ。

自然の細やかな変化やその美しい現れを人間との対比において巧みに描くことができれば、そのとき、文章は勝手に踊り出していくに違いないと説いているんですね。

人が自分の存在を自然のなかで意識するとき、目、耳、鼻、肌など、感覚器官を全開にして自然を捉えているのだと氏は言います。

自然に感覚器官をぶつけて、客観世界と親しく触れ合う。

この触れ合いによって精神が踊り出し、自然と自己が同時に発見されるに違いないということなんです。

では、参考文章として、主人公の感覚器官が全開され、もはや自然と一体化しているさまが見事に描きだされた名作の一部を見てみましょう。

静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのする此山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた。

彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、もし死ぬならこのまま死んでも少しもうらむところはないと思った。然し永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。

彼は膝に肘を突いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、不図、目を開いた時には何時か、四辺は青味勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくなっていた。空が柔らかい青味を帯びていた。それを彼は慈愛を含んだ色だという風に感じた。

山裾の霧は晴れ、麓の村々の電灯が、まばらに眺められた。米子の灯も見え、遠く夜見ヶ浜の突先にある境港の灯も見えた。ある時間を置いて、時々強く光るのは美保の関の灯台に違いなかった。湖のような中の海は此山の陰になっている為め未だ暗かったが、外海の方はもう海面に鼠色の光を持っていた。    志賀直哉(暗夜行路)

文法的に解析して見てみると、文末がアスペクト(相)形式によって、完結相(た)と、継続相(ていた)の二つだけで表現されているのがわかります。現在形(る)は一切使われていません。

明確にはっきりと二分されているわけではないのですが、およそ、継続相(ていた)で描かれているのが情景描写で、完結相(た)で描かれているセンテンスは主人公(彼)の感覚や思考が描写されているのが読み取れるんです。

完結相(た)で描かれた主人公の一連の流れは、「聴こえなかった」「感じなかった」「思った」「感じた」と続いていきます。

そして、「山裾の霧は晴れ、麓の村々の電灯が、まばらに眺められた。米子の灯も見え、遠く夜見ヶ浜の突先にある境港の灯も見えた。ある時間を置いて、時々強く光るのは美保の関の灯台に違いなかった。」という最後の段落に見られる完結相の連続は、情景描写ではあっても、そこに主人公の心理描写が含まれているので、あくまで完結相で描かれています。

この一連の文章は、「まばらに眺められていた」「境港の灯も見えていた」としてしまうと日本語としておかしくなるんですね。

「まばらに眺めることができた」「境港の灯を見ることができた」、そう「この目でとらえることができた」という主人公の心理的思いが含まれているセンテンスだからです。

なにより、最後の「灯台に違いなかった」、「違いないよ」という文末表現には、主人公の強い意思的なものまでがそこに見て取れるんですね。

そう、山裾の霧が晴れてきたことで視界が広がっていき、それと同時に(彼の)心も晴れていくという心理的描写がそこに秘められているのです。

それは、死を意識してしまうほどの暗闇の状態から心が解放されていくさまが描かれているのだと言ってもいいのかもしれません。

完結相(た)で書かれた文は、継続相(ていた)で書かれた文を包みこむようにまとめあげていきます。そして、テキスト全体の流れを前へ前へと進行させていくんですね。

一方で、継続相(ていた)で表現されている文は、そこで物語を足踏みさせると同時に、ことを深く掘り下げていく役目をもっているのです。

文末のアスペクト形式に注目して、注意深く読み取らないとわかりにくいのですが、「情景描写と、主人公の感覚や心理描写の対比」と「完結相(た)と、継続相(ていた)の対比」という、この二つの対立概念が見事にリンクしているんですね。