こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

尻尾のはなし ③テンス  彩色された文章

過去の話か それとも

尻尾のはなしシリーズ、3つ目にご紹介するのは、「テンス」というカテゴリーになります。

話し手が話す事柄が過去に起きたことなのか、それとも、これから起きるのか、といったことを区分する文法手段がここでいう「テンス」の概念です。

訳して「時制」ですが、厳密にいうと、日本語の時制というのは「現在・過去・未来」と、明確に区分けされているわけではありません。

日本語の場合、まず、助動詞の「た」という言葉が過去に起こった事柄を表す働きをします。

あと残るのが「現在」と「未来」ですが、このふたつの事柄を表す言葉は共通していて、「る」という助動詞で表現されます。

つまり、日本語で「た」に対立するのは「る」という形となり、二極対立の構造をもっているんですね。

たとえば、「ヒロシが鵠沼海岸を走った」と対立する動詞の形を考えたとき、「ヒロシが鵠沼海岸を走る」という文が自然に浮かんできます。

ただ、「走る」という言葉がいつ起こる事柄を表しているのかというと、それは現在ではなくて未来のことになります。

「今走る」といってもそれはリアルな現在ではなく、「これから、すぐ走る」という意味になるので、「走る」が現在を表すことはできないんです。

ところが、すべての「る」が未来を表すということではなく、「山が見える」のような状態動詞の「見える」の場合は現在を表します。

動詞が持つ特性によって、「未来」か「現在」かは変わりますが、「る」がどちらかで起こる事柄を表す働きをもっていることだけは確かです。

つまり、日本語には過去と、過去ではないことを表す時制があるだけだということがわかります。

日本語の時制というのは、英語のように「現在・過去・未来」の3つが基本なのではなく、「過去(た)―非過去(る)」の2つだということです。

では実際に、「た」と「る」という時制を使い分けることによってテキストにどのような表現効果が見れるのかを考察していきたいと思います。

まず、心理描写の例文を参考に、現在形を過去形に変えると、表現の印象がどれだけ変わるか見てみましょう。

Ⓐ大好きなヒロシにだまされていたなんて信じたくない。嘘だ、と思わずにはいられなかった。

Ⓑ大好きなヒロシにだまされていたなんて信じたくなかった。嘘だ、と思わずにはいられなかった。

Ⓐのように現在形で書かれていると、「信じたくない。嘘だ」と、畳みかけるように臨場感が醸し出されます。

ですが、Ⓑのように過去形で「信じたくなかった。」と表現すると、そこで一度括られてしまって、「嘘だ」の前で連続性が切り離されてしまう感じになってしまうんです。

過去形を選ぶと、書いている今からそのことを回想している感じになり、落ち着いた雰囲気になるんですね。

視点の切り替え

では、さらにわかりやすいように、つぎは小説からの引用を見てみましょう。

子供の泣き声が耳に入って目が覚めた。眠りが足りないと思うと、私はすべてのことが厭わしい。もう眠れそうもないので、起きて鏡の前に坐ってみた。
顔の皮膚は荒れていて、クリイムで拭っても汚れが残っている。朝のうち風呂へ入るといいのだが、今の姉との生活では、私には言い出せない。
昨日姉は風呂を沸かしてくれたのだが、私が帰ったときは大分冷えていた。  (伊藤整 「火の鳥」より)

太字の部分が現在形で書かれたセンテンスで、それ以外は過去形で表現されています。

「目が覚めた」~「鏡の前に座ってみた」~「昨日、帰ったときときは大分冷えていた」といったように過去形で回想的に物語は進んでいき、その間に、現在形で表現されたセンテンスが主人公の心理描写や「視点」を描いています。

そう、このテキストのなかで、唯一「る」が使われている「顔の皮膚は荒れていて、クリイムで拭っても汚れが残っている」という文だけが、主人公の目線で描写されているんです。

ここで読み手は、主人公の視点と同化して、一緒に鏡のなかを覗き込むことになるんですね。

さらに、よく見てみると「もう眠れそうもないので、起きて鏡の前に坐ってみた。」という文を2つの現在形センテンスの間にうまく挟みこむことで、この1文が見事な「視点」の切り替えスイッチの役割を果たしているのがわかります。

そう、流れるように次の文で主人公目線に切り替わっていくのが読み取れるんです。

 

さらに「厭わしい」「言い出せない」といった現在形表現が主人公の心理描写として一連の文章の核心的部分になっているのがわかります。

おそらくこの短い文章のなかで、現在形で書かれているセンテンスこそが、読み手の共感を導く表現となっているに違いありません。

なぜならそれは、主人公の「視点」であり、「思い」であるからです。

でも、過去形で書かれたセンテンスが物語を前に進めていくだけの飾りの部分なのかというと、決してそうではないんですね。

外延的要素である物語の展開部分が巧みに表現されているからこそ、主人公目線や心理描写が生きてくるんです。

やはり、読み手に上手く伝える文章を書くために大切なことは、その「視点」の切り替えを上手く表現するために、両極の概念を持つ各センテンスをどのように配置し並べていくかにかかっているのではないかと思うのです。

「た」で書き綴られる外延的表現と、「る」で書かれた内包的表現。

そのふたつが絶妙なバランスで相対的に示されることで、文章は立体的に彩色されていくに違いありません。