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視点  読み手の共感を得るための描き方とは

感情移入

小説を大雑把に区分けすると、一人称視点の小説と、三人称視点の小説に分けることができるのではないでしょうか。

ここでいう視点とは、つまり、物語が誰からの目線によって語られているかということなんです。

対象をどこから見つめているのかを表す「視座」と言い換えることもできるのですが、この記事では「視点」という表現で続けていきたいと思います。

まず、一人称視点の小説では、「ワタシ」「ボク」「オレ」といったように、自らを一人称で語る主役が登場し、物語は展開されていくことになります。

逆に三人称視点になると、まるで天の声のような、ナレーションによる語りを聞くように、読む進めていくことになるんですね。

一人称視点で語られる小説は、どこまでも一人称で物語は続いていくのですが三人称視点の場合は少し構成が変わってきます。

ナレーションによる外からの視点で物語が進行していくだけでなく、途中ところどころに、主人公を含め、登場人物の視点が混ざってくることになるんです。

しかもそれは明確に区分できるものでもなく、それぞれの読み手によって、捉え方もいくようにも広がっていくんですね。

では、わかりやすく見て頂くため、下の文章をご覧ください。

①ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。
②彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。
③頭を少し持ち上げると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。
④腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。
⑤腹のふくらんだところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。
⑥たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにピクピク動いていた。
⑦胴体の大きさにくらべて、足はひどくか細かった。   (カフサ「変身」より)

この7つの文で描かれた文章は、三人称の外部視点と、登場人物であるザムザからの視点が入り混じった文で構成されています。

はっきりわかるのは、②⑥⑦の文は間違いなく外部視点であり、③④がザムザの視点だということなんです。

残りの①⑤については、読み手のタイプによってとらえ方は変わってくるのではないかという気がします。

そして、人間の思考を持ち続けているのに体だけが気持ち悪く変わってしまった臨場感が、③④の文で上手く描写されているのがわかります。

③④のふたつの文はザムザの視点で描かれているために、読み手はその、おどろおどろしさに共感を感じることになり、より印象が残ることになるんですね。

すでに、こうした現象を日本語の研究機関では、視点がどちらよりか、その程度が測れる共感(empathy)という概念を使って理論化されています。

作家の意図にかかわらず、登場人物の視点で描かれた部分を、読み手はより感情移入するという統計結果が確かなモノとして認証されてきているんです。

臨場感

さらに面白いことに、よく見てみると、ザムザの視点で語られている③④の文の語尾は現在形の「る」で終わっているのですが、その他の文は、語尾が全て完了形の「た」で括られていることがわかります。

そう、これをカメラワークに例えるなら、「た」で括られた文は、引きながら全体を撮影しているような感じで、「る」で括られた文は対象により接近し、ズームアップで捉えている状態といっていいでしょう。

描写文の場合、現在形を選ぶと臨場感が、完了形を選ぶと回想の感じが出るという傾向が見られるんですね。

では、もう1例見ておきましょう。

【潮だまりにはたくさんの生き物がいた。巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる。太郎はそうした生き物を夢中になって捕まえた。】

まず、「潮だまりにはたくさんの生き物がいた」という最初の文は、完了形による解説調の文となっています。

その後に、「巻き貝もいるし、ウニもいる。ヤドカリも歩いている。シマダイも元気よく泳いでいる」と、現在形で連続表現されることで、太郎が潮だまりのなかを覗き込んで観察している様子がリアルに出ています。

この部分を、「巻き貝もいたし、ウニもいた。ヤドカリも歩いていた。シマダイも元気よく泳いでいた」と完了形で描いてしまうと、臨場感は薄れてしまい、あたかも回想しているかのような感じになってしまうんですね。

そして最後、「太郎は・・・」からはじまる文は完了形で表現され、文章は閉じられています。

 

この流れをカメラアングルで表現すると、まず最初は、潮だまり全体を、少し離れて引きながら撮影がはじまり、巻き貝のところからカメラが寄りはじめズームアップされていくといった感じでしょうか。

そして、最後にまた太郎の様子を引きながら撮影し、撮影は閉じられているのが読み取れます。

このように、みごとにカメラアングルと文末表現はリンクしているんです。

つまり、最初と最後の完了形の文が「地」の役目を果たし、あいだの現在形の連続文が「図」の役割を果たしていることになります。

そう、ここにも文章表現の核である二層構造の法則が見事にあぶり出されているんです。