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魅力あるテキスト(文章)展開を表現するためのカギはどこにあるのか

「自然」「人間」「文化」

日本語の3大動詞と言われている、「ある」「する」「なる」という3つの言葉。

国文学のパイオニア的存在でもある大野晋博士は、なんと、この3大動詞をベースにして区分けした類語辞典を発刊されているんです。

それは、もう文法書というレベルなんかではなくて、932ページに及んで記載された、丸々、ぶ厚い辞書となって仕上げられているんですね。

 

まず、最初に示されているのは、「ある」というカテゴリーのテーマで、それは「自然」という概念に置き換えて編集されています。

「そこにある」、まさに「自然」に生まれ出たもの、それこそが「ある」という領域に当てはまる単語群として区分けされているわけなんですね。

次は、「人間」という概念をベースにした「する」というテーマに続いていきます。

物事を他動的に創りあげていくのは人間だけなんだという観点に基づき構成されていて、まさに、人間の思考や行動を基盤とした言葉の数々で纏め上げられているんです。

そして、その人間たちによって能動的に動き生み出されたものは「文化」と呼ばれることになります。

「なる」というカテゴリーでは、その、人が創り出した「文化」概念に相当する単語群が並べられているのです。

ようするに、大野博士が作ったこの辞書は、3大動詞「ある」「する」「なる」を順に概念化して「自然」「人間」「文化」と置き換えることで、それをベースとしてカテゴリー区分けして構成されているわけなんです。

そう、この世に存在する日本語の単語の全ては、「自然」「人間」「文化」の3つに大きくカテゴライズできるのだと、説かれているんですね。

日本語の核心

この「ある」「する」「なる」という3大動詞は「形式用言」と呼ばれていて、じつは、文法的には実質概念の稀薄な表現とされているんです。

稀薄な表現とはどういうことなのかというと、それは、つまり、こういうことです。

たとえば、あの有名な「吾輩は猫である」という小説を例にすると、漱石は「吾輩は猫だ」というタイトルにせずに、「猫である」(*猫ではある)としています。

断定の助動詞「だ」を「で」という連用形にわざわざ変換して、内容量的には殆ど全同の「ある」という形式用言で繰り返し表現しているんですね。

「ある」という言葉は、ただ繰り返されているだけで、それ自体に特別な意味を持っていないんです。

仮に「吾輩は猫ではない」という表現にした場合も同様で、「は」という助詞で一度受け止めて、「ない」へと繋がれています。

じつはこの、「ではある」「ではない」という二つの言い方は、日本語で判断を表すための、肯定否定の典型的な形式となっているんです。

「である」と聞くと、なんだか偉い人が偉そうにしゃべっているように聞こえるんですけど、本当はそうではないんです。

「猫ではあるが・・」「猫ではないけれども・・」という風につながって行くのが本来の自然な表現形式なのだと言ってもいいかもしれません。

少しわかりやすいように、今度は「なる」を使った例文で説明したいと思います。

Ⓐ学校も9月から新学期だ。

このように名詞述語文で表現されていると、書き手の意思が強く感じとれます。

「いよいよ始まるぞ」といった書き手の主体的な意思というようなものが伝わってくるのです。ですが、

Ⓑ学校も9月から新学期になる。

と、形式だけの「なる」を使った動詞述語文で書かれていると、「そうか、なるんだ」といったように、どこか他人事というか、傍観者のようなニュアンスが醸し出されることになるんですね。同じように、

Ⓒこの映画の開演は2時です。と、目の前にいる相手から話かけられたとします。

話し手が映画の始まるのを楽しみにしている様子、もしくはこちらに「遅れないでね」と、念押しているかのような雰囲気が伝わってきますが、

Ⓓこの映画の開演は2時からになります。

と言われた場合、話し手が「なんだよね」と、軽く教えてくれているかのような、そんな感じすらしてきます。

そう、こういった微妙な言語表現の違いを捉えることが出来るのかどうか、それこそが、日本語の述語表現の核の部分に気付けるのか否なのかだと思うのです。

「です」と「ます」

少し角度を変えて、今度は形容詞述語文を見てみると、話し手自身の心理や思いを伝えるとき、人は「(私は)寂しい」「(私は)痛い」といったように形容詞を使います。

形容詞述語もまた、名詞述語と同じように主体的表現に基づく伝達手段なんですね。

ですが、三人称を主体とした表現にするなら、「彼女は寂しがっている」とか「あの患者はとても痛がっている」といったように、動詞で言い換えなければなりません。

なにしろ、ひとゴトなんですから、逆に、客観的表現に変えなければならないんです。

ようするに、すべての日本語のセンテンス(文)というのは、必ず2つのタイプに区分されることになります。

一つは書き手の主体的表現で書かれている題説構文で、名詞述語文と形容詞述語文がこれにあたり、丁寧形にすると必ず最後が「です」で終わります。

もう一つがどこまでも客体的表現として、傍観者的に事柄を説明していく動詞述語文であり、丁寧形にすると必ず「ます」で締めくくられています。

常に例外がつきまとう日本語の文法にしては珍しいことなのですが、この区分には例外はないんです。

名詞述語文を、あえて「ある」「する」「なる」といった形式用言を文末に添えることで動詞文に変えて表現する。

それは、主観的な名詞述語文で断定するのではなく、どこか客観的に動詞文にすることで、ソフトに、少しオブラートに包んだような表現として書き手が締めくくろうとしているのが読み取れるのです。

日本語というのは膠着語なので、後にいくらでも言葉を張り付け足していくことができます。

よく見られるのが、「することにしました」(する→こと→する)とか、「行くことにしたんです」(行く→こと→する→ん)といったように形式名詞と形式用言が入り乱れている表現です。

では、どう判断して何を信じればいいのかというと、それは最後の最後に注目すればいいんです。

名詞・形容詞(です)でその文は終わっているのか、動詞(ます)でその文は締めくくられているのか。すべては最後の締めくくりの表現にゆだねられているんです。

語尾を付け足していくことで、どこまでも続けることの出来る言語表現。

それを日本語の本質とするなら、最後の言葉を指標とするしかないのかもしれません。

ひとつのテキストのなかで、「です」文と、「ます」文をどのように配置しながら展開させていくのか。

主張文で表現されたセンテンス、つまり「です」文で書かれたトピックセンテンス(リード文)を中心として、その詳細をいくつかの「ます」文で取り囲むようにパラグラフ(段落)を完成させる。

そのパラグラフがいくつか並べられた構成こそが、最も理想的なテキスト表現の姿だと言われているんですね。

吸って吐くというように、二つのタイプの文によって生み出される呼吸のようなもの。

そのバランス感覚を自然に感じとり、表現できるかどうか、そこにこそ、魅力ある文章展開を表現することのできるカギがあるように思われてしょうがないのです。