こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

接続助詞「が」について  伝えたいことがスルリと読者の意識から逃げてしまわぬよう

文と文をつなぐ接続助詞にはさまざまなタイプが存在します。

たとえば、

Ⓐ紅葉の時期を迎える、京都は観光客で溢れかえります。(順接条件節)

Ⓑいくら練習をかさねても、少しも上達しません。(逆接条件節)

Ⓒ風を引いたので、仕事を休みます。(原因・理由節)

Ⓓ資格を取るために、学校へ通います。(目的節)

各文ともに、「と」「ても」「ので」「ために」といった接続助詞によって、前後ふたつの単文をつなぎ合わせて複文が構成されているのがわかります。

これは、ふたつの文が接続助詞で連結されることによって、何らかの論理的関係がそこに生みだされていることを意味するんです。

当然、そこには時間的前後関係や因果関係があり、「前半+後半」というメリハリがふたつの出来事を強く倫理的に結びつけていることがわかるんですね。

ですが、これらの接続関係というのは、前半の従属節にモダリティ表現が含まれてしまうと、ひとつの文として成り立つことが出来なくなります。

モダリティというのは、話者の判断や主観が含まれた対事的・対人的な文法カテゴリーのことで、ようは、話者の気持ちをあらわす表現のことです。

Ⓔ雨が降るだろうに、彼は出かけた。??

Ⓕ私は出かけようのに、雨が降ってきた。??

このように、ほとんどの接続助詞は、モダリティを含む文の場合、接続させることは出来ないのですが、接続助詞「が」と「けれども」だけは例外になります。

Ⓖ雨が降るだろう、彼は出かけた。

Ⓗ私は出かけようとしたけれども、雨が降ってきた。

いかがでしょうか。立派に文意は通じています。ここで取り上げたいのは、接続助詞「が」のほうです。

この接続助詞「が」というのは非常に便利な助詞で、繋ぎあわせられない文はないのでして、極論を言えば、繰り返し使えばどこまでも文を続けていくことが出来るんです。

Ⓘヒロシはセッションの時間に大幅に遅れてきた、昨日のこともあって圭介は怒らなかった、裕子はそんなふたりの様子を黙って見守っていた。

本来は「が」も「けれども」も逆接条件だけにおいて使用される接続助詞のはずなのに、「が」においては、前後がどんな論理関係であってもサラサラとつなげていけるのです。

事実、私たちは文章を書いているときにうまく調子があがってスピードが出てくると、ついつい、「が」という言葉で文を繋いでしまっているのではないでしょうか。

文法書としては空前のロングセラーとなった「論文の書き方」の著者である清水幾太郎氏は、そのなかで、「が」について下記のように論じています。

(「が」の用法には)反対でもなく、因果関係でもなく、「そして」という程度の、ただ二つの句を繋ぐだけの、無色透明の使い方がある。
(中略)前の句と後ろの句との単なる並列乃至無関係が「が」で示されているのであるから、「が」は一切の関係或を言い表すことが出来るわけで、「が」で結びつけることの出来ない二つの句を探し出すことの方が困難であろう。
二つの句の関係がプラスであろうと、マイナスであろうと、ゼロであろうと、「が」は平然と通用する。
「彼は大いに勉強したが、落第した。」とも書けるし、「彼は大いに勉強したが、合格した。」とも書けるのである。
「が」という接続助詞は便利である。一つの「が」を持っていれば、どんな文章でも楽に書ける。
しかし、私は、文章の勉強は、この重宝な「が」を警戒するところから始まるものと信じている。
(中略)心に浮かぶものを便利な「が」で繋いでいけば、それなりに滑らかな表現が生まれるもので、無規定直接性の本質であるチグハグも曖昧も表面に出ずに、いかにも筋道の通っているような文章が書けるものである。
なまじ、一歩踏み込んで、分析をやったり、「のに」や「ので」という発見乃至設定しようとなると、苦しみが増すばかりで、シドロモドロになることが多い。
踏み込まない方が、文章は楽に書ける。それだけに、「が」の誘惑は常に私たちから離れないのである。

                         「論文の書き方」より

つまり、この種の「が」が書かれているとき困るのは、読み手がここで一瞬、思考を乱されるからなんですね。

「が」ときたので、それでは次は逆接で続くのかな、と深層心理で瞬時に思ってしまうのに、それはあとまで読まないとわからない。その分、文章はわかりにくくなるのです。

「が」ではなく、「ので」や「ため」で繋がれていると、前半と後半に上下関係が出来るので読んだ感触としてはメリハリが出ます。

論理関係で二つの文は強く結ばれる。つまり、読み手の意識に言葉が強く残るのです。

実際、日々の会話のなかでイメージしてみるとわかりやすいような気がします。

「せっかく作ったのに」とか「あなたのためなんだよ」と言われると、不思議に心に言葉が残ります。

きっと、書き手の思いが、読み手の意識からスルリと逃げてしまわないように、「が」の使用を警戒しろと清水氏は説かれているのでしょう。