こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

「れる・られる」 人はなぜ受身言葉を使うのか

そこに「場面」をともなうか

日本語の表現のひとつに、受身、または受動態と呼ばれている文法カテゴリーがあります。

「思われる」「求められている」「販売されている」などといったように、他に働きかけることを表す他動詞に「れる/られる」がついた表現ですね。

なぜ、私たちは知らず知らずのうちに文の最後に受身表現を使ってしまうのでしょうか。

さらに、それによって読み手にどのような表現効果を与えているのでしょうか。

その理由を考察するためには、まず前提として、日本語のテキストは2種類のタイプにハッキリと区分されているという事実をもう一度強く意識下に置いておかなければなりません。

ひとつは小説・報道文といった描写文であり、受身を使うことで主語に視点を近づけ「私」を投影することができます。このタイプのテキストには常に具体的な「場面」がともないます。

そしてもうひとつのタイプが、その具体的な「場面」をともなわない論文・レポートなどの論説文で、こちらは受身を使うことで「私」という存在を消し去り、事態を客観化させてしまうんですね。

では、まず描写文の受身表現による例文を見てみましょう。

Ⓐ明訓高校エースの里中投手は、準決勝で対戦した土佐山田高校に、初回、いきなり5点を奪われた

Ⓑ練習のあいまに、圭介は背後から声をかけられた

 「桑田さん!」

 それは、裕子だった。

例文Ⓐでは「5点を奪った」主体は土佐山田高校なのに、「奪われた」と受身にすることで里中投手に視点が寄っていることを示しています。

これは里中投手という存在が、それまでの実績によって、この時点で最も世間に注目されている球児だったからであり、記者が自然に視点を里中投手よりに寄せて書いてしまっているということが見て取れるんです。

例文Ⓑにおいても、もし裕子よりの視点であれば「圭介に声をかけた」となることころですが、あえて、「圭介は声をかけられた」と圭介よりの視点で表現されています。

これによって読者も自然にその視点に寄りそい、圭介を中心人物ととらえて読み進めていくことになります。

このように「場面」をともなう文章では、受身の選択は視点の選択に密接に結びつくんですね。

そして、里中投手と圭介に共通して言えることは、この「場面」で起きた状況に、2人はどうすることもできなかったという意味合いが含まれていることになります。

里中投手は無力であったがゆえに、土佐山田打線を押さえ込むことができずに失点を許してしまったのであり、圭介は前を向いていたのにいきなり背後から声をかけられたということなんです。

つまり、ⒶⒷふたつの出来事はふたりの意思に関係なく自然に発生してしまったということであり、それこそが、まさに、受身の本質と言えるのです。

そう、書き手は、視点を同化させている主人公のその「場面」においての無力感を読み手に伝えるために受身表現を使っているに違いありません。

もっとも圭介の場合は、裕子から声をかけられて二人の関係が進展していくという、思いがけなく訪れた幸せに対する無力感ということで弱冠ニュアンスは異なりますが、「自分の意思に関係なくコトが起こった」という共通点がそこに含まれているのは間違いないんです。

Ⓐでいえば、記者が「あの里中投手の身にそういうことが起こってしまったのです」と、筆を走らせている感じがしますし、Ⓑでは、圭介と裕子のラブストーリーが自然に展開していくように作者は表現したかったのではないでしょうか。

自然の成り行き

一方、「場面」をともなわない論説文では、受身を選択するということは、視点の選択ではなくて話題の選択に結び付くことになります。

今度は、その論説文の例文を見てみます。

Ⓒ問題とされているその知事のふるまいは、自治体にさまざまな歪みを与えているのではないかと思われる

Ⓓこれからは個性の時代だ。たとえば、スポーツなどを通じることで、個性を互いに認め合う教育が求められるのかもしれない。

これらの例文は能動態にすれば「私は~思う」「社会は~求める」としなければならないところを、あえて「私には~思われる」「社会から~求められている」という言い方にして客観化しています。

「思う」「求める」主体を表現することを回避しているんですね。

Ⓒは「思う」を「思われる」にすることで「私」の存在を弱めていますし、Ⓓは「求める」を「求められる」にすることで「私」の色を消し社会一般の需要であるような感じにしているんです。

ここでも、「れる/られる」が使われることで主体の存在感が薄くなり、論理が自然に発生しているニュアンスが醸し出されることになるんです。

ようするに、書き手は読み手に対して「私は思うんだ」「社会は求めているんだ」といったように自己主張を押し付けたいのではなくて、「それが今の自然な流れなんです」というように自然な流れをもって論理を受け入れて欲しいと思って受身表現を使っているわけなんです。

もともと、私たち日本人は物事を自然の成り行きととらえる傾向がかなり強いと思われます。

だから成り行きであれば仕方ないこととして容認する傾向もかなり強くなるのかもしれません。

「委員会としては・・・・することになりました」と報告すると、皆そうなのかと承認するのに、「委員会としては・・・・することにました」と能動態にすると、その考え方には異論があると反対する人が必ず出てくるんですね。