格支配の例外
日本語の文法には、辞書のレベルでは決定しきれない例外が存在すると言われているのだと、前回のブログ記事で紹介しました。
繰り返しになりますが、たとえば、下記のような動詞における格支配の例外を見て頂きたいと思います。
Ⓐ鯛を(刺身に造る)。
Ⓑ局長の行動を(不審に思った)。
これらの文に共通するのは、「鯛ヲ」「局長の行動ヲ」というヲ格が「造る、思った」という動詞と直接結びつくことができないということなんです。
「刺身に鯛を造る」「不審に局長の行動を思った」と語順を入れ替えると日本語としてかなり不自然になります。
また、「鯛を造る」「局長の行動を思った」というように、「刺身に」「不審に」という「二格」を省略することもできません。
ようするに、「刺身に造る」「不審に思った」という述語句を切り離すことはできず、あくまでセットで一つの述語になるということなんです。
日本語の文では、述語がそれぞれの格と直接つながり支配しています。ゆえに述語が文の核なんだと言われているのに、これらの例文ではそれが当てはまらないんですね。
そして、国文学博士さえ「こういった説明しきれない例外は文法の世界に存在する。これはもう、そいうものなんだよ」と言い切って終わらせています。
確かに、日本語という非常に難解なテーマの世界の話なのですから、例外の事例は常に姿を見せてくるのでしょう。
ただ、日本語のセンテンスが述語を中心とした膠着語であるという核心的な部分だけに対しては、例外的な要素はあってはならないのではないかと私は思うんですね。
「造る」「思った」という動詞述語は、単独で堂々と、文の中心に鎮座していなくてはならないはずなんです。
ぼくはウナギだ
そしてついに、その格支配の例外文に対する構造を解き明かしてくれる一冊を見つけました。
それは何度も繰り返し増刷されている、奥津敬一郎「(ボクハ ウナギダ)の文法」というロングセラーです。
奥津氏はこの著書のなかで、ⒶⒷのような格支配の例外文を「変化文」なのだと説かれています。
さらに、Ⓐ鯛を刺身に造る。という例文の場合、「刺身に」という文節は「名詞+格助詞」なのではなく、「結果語」に値するものだと分析されているんですね。
つまり、このⒶ文の場合、「鯛は刺身に姿を変えた」という内容が書かれている変化文であり、「刺身に」はその結果のありさまだということなんです。
鯛を刺身に造る。の深層表現は、
「(鯛を刺身だ)造る」という構造になっていて、(鯛を刺身だ)という補文が「造る」という主文のなかに含まれていることになります。
「刺身に」の「に」は格助詞なのではなくて、助動詞「だ」の活用形なのです。「刺身だ」→「刺身に」という活用変化ですね。
当然ながら、すべての「に格」がそうだというわけではなくて、「だ」の活用形と捉える場合は、あくまで、「変化文」という限定のなかで言えることなんです。
そして、Ⓑ局長の行動を不審に思った。という変化文の例でも同じことが言えて、これは少しわかりにくいかもしれないのですが、話し手の意識のなかでは、局長が疑わしい(不審)存在に変わってしまったということであり、「局長の行動が不審だ」と思っているわけです。
次のように、ナ形容詞文の例で見てもよくわかります。
Ⓒ街はようやく静かになった。
(街はようやく静かだ)なった。
続いて、動詞文でみて見ましょう。
Ⓓ彼女は赤いドレスを着て、フランス人形のようになった。
彼女は赤いドレスを着て、(フランス人形のようだ)なった。
いかがでしょうか。
時枝誠記、松下大三郎といった国語学のパイオニア的存在といわれる学者たちも、助動詞「だ」の連用形として「に」を認めています。
動詞の格支配の例外は補文が含まれているためだと捉えることが出来るなら、少なくとも、辞書のレベルでは決定しきれないなどというように、あきらめなくてもすむのではないでしょうか。