必ずでてくる例外
「日本語学の教科書」と呼ばれる、いわゆる文章教本をいろいろと読み漁っているうちに気づいたことがあります。
それは、日本語の文章論や文法の定義なんていうものを究極の部分まで細かく突き詰めようとしても、明確な正解なんてものを掴むことは、たぶん、できないんだということなんですね。
大まかな論理ではおよそ同じようなことが述べられ統一されてはいるのですが、細部まで突き詰めれば、真逆の説明がなされていることも多いのです。
たとえば、「日本語のセンテンスで一番大切とされるのは述語である」という理論はおよそ統一されているのですが、「同じように主語も大切だ」という意見もあれば、「主語なんてのは、他の補語と同じレベルに過ぎないんだよ、いや、そもそも主語なんて言葉すらもおかしいだろ、それは英文法の話なんだよ」なんていうように書かれている教本もあります。
どちらの理論を信じるのかは自分次第なんですが、そもそも文法というのはどんな風に法則を立証したとしても、必ず「例外」というものが出てくるみたいなんです。
国語学者が理論づけた法則のうち、97%は見事検証されているのですが、理論にあてはまらない残りの3%の要素がどうしても浮き彫りになってくるといった具合です。
そして、「この件についてはまだ未解決な部分も残されており、今後のさらなる分析が課題となる」といったような補足がほとんどの教本に追記されているんですね。
文学博士・仁田義雄(著)「日本語文法研究序説」のなかに、動詞の格支配の特例について述べられているある箇所があります。
たとえば、
Ⓐ鯛を(刺身に造る)。 ?鯛を造る。
Ⓑ出世する男を(夫に持つ)。 ?出世する男を持つ。
Ⓒ一人娘を(嫁に取る)。 ?一人娘を取る。
といった例をこの著書のなかで仁田氏は提示されています。
なるほど、ⒶⒷⒸの「造る、持つ、取る」という動詞は「ヲ、二」という格体制を取っているものの、ヲ格、二格がそれぞれ同じように独自に結びついているわけではないんですね。
上の?から見て分かるように、ヲ格と、それぞれの動詞を直接つなぎ合わせることはできません。
まず二格と動詞が結び付いて、その全体に対してヲ格は結びついています。あくまでも、その繋がりは間接的なんです。
そう、二格の存在を前提にしないと、ヲ格は動詞述語と結びつくことが出来ないんですね。
述語は文を支配することで、すべての格と分け隔てなく結びつくはずなのに、ⒶⒷⒸの例ではそれが出来ない。こんなことがあっていいのでしょうか。
ただ、ここでは、その特例となる理由に対する仁田氏による説明はなされていませんでした。
「こういった、辞書のレベルだけでは決定しきらない動詞の格支配の例もあるのだ」と書かれているだけだったんです。
なぜ、このような特例が存在するのか、原因をどうしても知りたいと思った私は、これまで購入した文法書を読み返し捜しましたが、どこにもその答えを見つけることは出来ませんでした。
ネットの検索もあまり上手く出来るほうではありませんので、やはり見つけられません。
仕事のために移動しているときも、みんなで食事をしているときでも、疑問が頭から離れることはありませんでした。
どこにもないその答え
ですが、しばらくしてある一冊の「格支配の例外」に関して記載されている文法書を見つけることが出来ました。
それは、三原健一(著)「構造から見る日本語文法」という一冊です。
この著書のなかで、三原氏も同じような例文を提示しています。
Ⓓ局長の行動を(不審に思った)。
Ⓔ設計者は白砂を(川に見立てて)庭を作った。
三原氏はこれらを「認識動詞構文」とし、このタイプの構文には、例文に見られる「思う」や「見立てる」の他に「考える」「感じる」「感謝する」といった動詞が用いられていて、これらは認識を表す用法なのだと説かれています。
そして仁田氏と同じように、不審に局長の行動を思った。と語順を入れ替えたり、局長の行動を思った。というように「不審に」を省くことは出来ないのだと書かれています。
あくまで、「不審に思った」がひとつの述語句となるので、他の文節は間に入ることが出来ないのだと。
そしてその理由が、それが「認識動詞構文」だからであり、認識動詞が持つ「語彙的ふるまい」が構文に影響を及ぼしているということなのです。
三原氏によると、「認識動詞構文」における「ヲ格」というのは本来の目的語の役割を放棄して、提示機能的な役割に変換してしまうのだということらしいんですね。
たとえば、
Ⓕ首相が中国を訪問した。
という、なんの変哲もない動詞述語文の場合、「首相 中国 訪問」のように、新聞の見出しみたいに助詞を省いて書くことが出来ます。
「ヲ格」という目的格は、もともと「訪問した」という述語と強烈に結びついているために、「ヲ」を省略しても立派に意味が通じるようになっているんですね。
もちろん「首相が」の「ガ格」も同様です。
格助詞のなかでも、「ガ格」「ヲ格」と、「二格」の一部は述語に対するその膠着の強靭さゆえに、いつでもその姿を消すことが出来るのです。
でも例外として、「認識動詞構文」の「ヲ」は、脱落させることが出来ないのだと三原氏はいいます。
脱落させて、局長の行動、不審に思った。などという省略文にしてしまうと日本語として不自然になってしまうのだということなんです。
提示機能的に「ヲ格」が変わってしまうということは、すなわち主題提示や取り立て提示と同じような役割を果たすということになります。
つまり、「を」の職能が、「は」や「も」「さえ」「しか」といった副助詞のように変わってしまうんですね。
局長の行動を、不審に思った。つまり、
局長の行動を、(どう認識したかというと)不審に思った。という「題説構文」になってしまったんだよということなんです。
日本語の「叙述構文」と「題説構文」。日本語文の基盤はそのふたつに大きくハッキリと区分され、定義されているはずです。すべての論理はそこから生まれているからです。
「局長の行動を不審に思った。という動詞(叙述構文)は認識動詞を使っているので、じつは(題説構文)だった。だから(不審に)と(思った)は切り離せないのだ」と三原氏は言うのです。
もう私は何を信じていいのかわからなくなりました。
ただ、真っ先に疑問に思ったのが、上記の仁田氏による例文ⒶⒷⒸに見る「造る、持つ、取る」という動詞は認識動詞ではないということです。いったい、これはどういうことなのでしょうか。
「もうあきらめよう。答えなんてどこにもないんだ」と気持ちを切り替えようとしていたのですが、ついにその謎を解き明かしてくれる一冊にたどり着くことが出来ました。
それは、なにげに近所のブックオフの立ち寄ったときのことだったのです。 (つづく)