相國寺  足利義満が建てた109メートルの大塔

応永6(1399)年、それまで誰ひとり見たことのない高塔が、京都洛中の北の地に出現しました。
その高さは三百六十尺、足利三代将軍・義満が竣工させた相國寺・七重大塔です。
百メートルを優に超すこの塔は、義満が宗派を超えた国家的建築物と位置付けた巨大記念物でした。
洛中を囲む東山・西山を越えた地域からも望まれたと伝わる、とてつもない高さだったのです。

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義満が支配した時代は、まさに足利幕府の全盛期だったといえます。「日本国王」を自称し、法皇となり全てを支配しようとしていたことはあまりにも有名です。この高塔の落成供養の儀式では、皇族、門跡はじめ関白以下の廷臣たちがみな早朝から集合しました。
禅宗の落成式にもかかわらず、千僧供養として山門(延暦寺)400人、南都(興福寺)300人、その他、顕密の旧仏教寺院など千人の僧侶が動員されたのです。

そして、なんと導師を務めたのが天台座主の青蓮院尊道入道(しょうれんいんそんどうにゅうどう)だった為に、各方面から「希代の不思議、未だその跡を聞かず」と、そうとう非難されました。ですが、皇族をも凌ぐ絶大な権力を持った義満の前に、天台も南都も「不思議だな~」というだけで、余儀なく義満の指示に従うしかなかったのです。

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足利家が統治した室町時代に最も陽のあたっていた京都という場所で、将軍の権力をただひたすらに拡大し続けること。義満の一生は、それに費やされたといえるのではないでしょうか。

祖父である尊氏も父の義詮も、内乱が巻き起こっていた内政を抑えることで精いっぱいだった。義満のみずからを法皇に至らそうとするほどの権力欲の裏側には、この祖父や父の不安定な日々を誰よりも知っていた思いがあったのでしょう。

また義満は尋常ではない黄金趣味の人で、厳島詣のとき供の者に金色の腰物をつけさせたり、北山第(金閣寺)完成後に後小松天皇の行幸を仰いだときには、早咲きの桜を植え、五色砂の上に金銀造花をまき散らす徹底ぶりだったのです。

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この前代未聞の七重大塔はその後どうなったのでしょうか。東寺の高さ55メートルの五重塔もそうなんですが、やじろべえのような構造になった日本の木塔は、地震には強いのですが落雷にすぐ壊されてしまうんですね。

完成してから4年後の応永10(1403)年に、この高層建築は落雷で炎上してしまいます。そのあとすぐに北山第に再建されましたが、またもや落雷で炎上。これで終わりかと思いきや、以外と知られていないのですが、銀閣寺を建てた孫の義政がふたたび相國寺の境内に新築します。ですが、あの応仁の乱によって塔も焼け落ちてしまい、再び建てられることはありませんでした。