延暦寺 信長によって荒廃した寺を再興させた天海   

延暦寺のある比叡山は標高850メートルたらず、日本の山としてはそれほど高くありませんが、京都市内が足下によく見渡せます。西側はかなり急な斜面で、東側はいくつかの平坦面を持ち、ややゆるやかです。
それは、自然の山城のようで、どんな外敵もこの山に攻め上ることは困難でした。そう、あの織田信長が攻め入るまでは。

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延暦寺の歴史は、788年に19歳の最澄が比叡山に小堂(一乗止観院)を建て、薬師如来を安置して法灯をともしたことから始まります。
806年、桓武天皇は最澄に絶対の信頼をよせ、国家公認の僧としました。このときに日本天台宗は開かれました。

その後、仏教と学問の聖地だった比叡山には全国の修行者が集まり、法然、親鸞、一遍、栄西、日蓮など鎌倉新仏教の祖師たちを輩出します。

延暦寺では、最澄、円仁、円珍、良源の四大師が特に尊崇されています。
そして、もう一人、確かに大師号を賜った僧がいます。慈眼大師天海です。
天海こそが、信長の比叡山焼き打ちによって、焦土と化した根本中堂や大講堂をはじめとした諸堂伽藍を、徳川家の援助を受け復興させた僧です。

天海は徳川家康のブレーンとして活躍した僧であり、金地院崇伝とともに、260年にわたる徳川幕府安泰の思想的基盤をつくりあげました。官僚の役割をもつ崇伝に対し、天海は狡猾老獪な政治家の役割を担っていたといえるでしょう。

家康は浄土宗を信仰していましたが、国の支配者としては一宗教に偏ってはならないと考えました。
そして、全仏教につうじる為に、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの母体となった天台宗を、徳川幕府の最良のパートナーとして選択しました。

家康は、川越の喜多院という天台宗の寺院の住職だった天海と出会います。
彼の宗教政策を実現できる才能を見抜き、権僧正に任じ、比叡山を支配するように命じます。

絶大な権力を持つ家康の命を受けた天海は、当然ながら逆らうことはできません。天海は僧正になり、二代将軍秀忠、三代将軍家光の信頼を得て、荒れ果てていた延暦寺を見事に再興させるのです。