西本願寺  東本願寺との違い  桃山時代の国宝建築

阿弥陀如来に深く帰依していた秀吉

西本願寺は浄土真宗本願寺派の総本山です。1591年に、豊臣秀吉の寄進によって壮大な規模の土地をあたえられ、現在の堀川六条に移転しました。

織田信長は本願寺と敵対関係にあり、石山本願寺の土地を手にするために、約11年におよぶ攻撃を続け撤退させています。

それに反して豊臣秀吉は、本願寺を折りに触れて保護し、他の宗派よりもあきらかに本願寺を優遇したのです。

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西本願寺の現在の場所も、好きにえらぶことの出来た敷地であり、税も特別に免除されていました。なにより、秀吉自身が本願寺の阿弥陀如来に深く帰依していたのです。

いつ命を落とすかわからない戦国時代の状況下で、当時の人々が死後の往生を願う気持ちは、現在の人々の想像を絶するものです。当然ながら秀吉もそのなかの一人でした。

文化遺産が蓄積された美の宝庫

このような秀吉と本願寺のつながりから、伏見城や聚楽第から秀吉ゆかりの建造物が移築され、桃山時代の面影を色濃くのこしています。

1617年の火災でほとんどの建物が焼失しましたが、しばらくして第十三世の良如(りょうにょ)がほぼそのままに再建しました。

美術に造形の深い良如は、秀吉の残した華麗な様式を忠実に伝えることにこだわっていたからです。

そして、西本願寺は東本願寺と同じく、信仰の場として重要な寺院です。

一方で、西本願寺はそれと同時に日本の建築界や美術界にとって、宝のような文化遺産が蓄積された場所だと言えるのではないでしょうか。

数々の障壁画を飾る書院、池に浮かぶ飛雲閣、極彩色の彫刻が映える唐門、平安美術の至宝「三十六人家集」など、まさに美の宝庫なのです。

なかでも代表的な建物が、1624〜44年頃に徳川家光の寄進によって再建された国宝の書院と黒書院です。

そのなかの対面所は、162畳の下段と41畳の上段からなる荘厳なスペースです。

門主と大勢の僧・門徒とが一堂に対面するのに使用されたことから対面所の名がつけられました。

渡辺了慶 金碧障壁画

そして、何といっても見どころは狩野派・渡辺了慶の描いた金碧障壁画です。

日本画の岩絵の具に水晶・銅・珊瑚が用いられ、見るものを圧倒する迫力で描かれています。

了慶は狩野光信の弟子で、狩野の血は受けていない狩野派の一員ですが、江戸初期の西本願寺と結びついた西本願寺のお抱え絵師のような存在だったのです。

西本願寺は、こういった実績はあまりないが才能のある人物を抜てきすることで、独特の芸術文化を作り出そうとしていました。

また、茶道においても、千利休の弟子であり古田織部とも親しかった藪内剣中の息子である真翁(しんおう)を、お抱えの茶頭にしたのもちょうどこの時期にあたります。

ちょうどこの頃、政権は豊臣に代わった徳川幕府の初期確立期の時代でした。

西本願寺は徳川家光の寄進を受けながらも、うつろいやすい権力に依存しているだけでは存在価値をなくすことを自覚していました。

華麗な建築様式は引き継いでも、そこに表現する芸術作品には、武家や朝廷に対抗できる独創性を求めることにこだわったのです。