清水寺    京都のシンボライズ 清水の舞台

清水寺の本堂にある「清水の舞台」は、まさに京都を象徴する存在で、この舞台から見る絶景を目当てに年間400万の人びとが訪れます。
創建以来、数々の焼失と再建を繰り返してきましたが、現在の本堂は1633年に再建されたものです。舞台の床は厚さ10センチのヒノキ板が400枚敷かれ、雨が降った時に水がたまらないように、奥がやや高く、手前が低く造られています。

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清水寺は、今から約1200年前の778年に延鎮(えんちん)という僧が、音羽の滝の上に観音像を祀ったことに始まります。その3年後に、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂がこの地にやってきます。夫人の安産祈願の為に鹿狩りに来た田村麻呂を、延鎮は戒め観音に祈るようにさとらせます。改心した田村麻呂は祈りをささげ、夫人は無事に出産しました。

そして、夫人と共に観音に帰依し仏堂を建立しますが、これが清水寺の安産信仰の始まりです。さらに、田村麻呂の娘である春子は、桓武天皇の皇子、葛井親王(くずらいしんのう)の安産を祈って効果があったので、清水寺の門前に泰産寺という寺を建てました。この寺は南側の丘の上に移され、今は塔だけが残りましたが、それが本堂の舞台から正面に見える子安塔です。

この安産信仰が庶民と清水寺を深く結びつけました。平安京にあった東寺や西寺は、あくまでも朝廷の官寺ですので、庶民の日常の暮らしや信仰にはあまり関係ありませんでした。庶民の信仰をあつめたのは、清水寺の本尊の十一面千手観音です。

そして、現在では釈迦堂には釈迦如来像が、阿弥陀堂には浄土宗の法然の像があり、大日如来、不動明王など、他にも数多くの仏が祀られています。まさに、時代に併せて庶民の信仰を受け入れてきた、清水寺の懐の深さを表しています。

清水寺は京都の東山山麓にあるのに、珍しいことに昭和40年までは奈良の興福寺の末寺で法相宗でした。(現在は独立して北法相宗)
興福寺(南都)は延暦寺(山門)と犬猿の中で、この両寺が争うとき、延暦寺は真っ先に近くにある清水寺を襲撃しました。ですので、この寺は兵火で何度も焼失し古い建物が残っていません。音羽山の屋根をひらいて寺を建立したのも、崖に懸造りで本堂や奥の院を突き出して建ててあるのも、創建当時から同じスタイルです。これらは、延暦寺の攻撃から寺を護るために考え出された建築だったのです。