月の名所 桂川のほとり
八条宮家の別荘として江戸初期に造られた桂離宮。
そこは、心字池を中央として、周りに茶亭や書院が配置された回遊式庭園です。
趣向をこらした建築群が並んでいるのですが、古書院にある観月のための月見台こそが、この庭園をもっとも象徴する場所なのは間違いありません。
もともと桂という場所は、古来より月の名所と知られた、数多くの歌人に詠まれている風光明媚な場所であり、伏見の指月と共に平安時代に開発された貴族の別荘地でした。
桂川のほとりにあるこの土地は、源氏物語でとりあげられる光源氏の別荘「桂殿」の跡地になります。
光源氏の別荘が実在したわけではありませんが、そのモデルとなった藤原道長の別荘「桂家」が確かに存在していたのです。
そして、千年前のこの別荘の始まりから、道長の血統である近衛家相伝の別荘地であり続けましたが、15世紀頃には、一時、空き地となってしまい、継承されていた土地が特定できなくなっていたんですね。
離宮の創建者である八条宮智仁(としひと)親王は不明になっていたその継承地を探し求め、ついに見つけ出しましたのです。
そこは、まさに王朝時代の世界を再現するには、この場所は絶好の舞台だったのでしょう。
波瀾万丈 智仁親王
智仁親王がこの別荘造営に情熱を注ぐことになるその背景には、彼の二十歳になるまでの、波瀾にみちた青年期の経験が大きく影響していました。
智仁親王は後陽成天皇の弟であり、6人兄弟の末っ子なのですが、知能レベルが多くの兄弟の中でも極めて突出していたといいます。
そこを早くから見出していたのが、あの豊臣秀吉であり、親王に関白を継がせようと養子に迎え入れたのです。
しかし、翌年に鶴丸が生まれた為に、豊臣家のあと継ぎは鶴丸になり、秀吉は八条宮家をつくり親王を独立させることになります。
そして時は流れ、1598年、後陽成天皇は譲位の意向を示し、この時二十歳だった弟の智仁親王に皇位を譲ることを強く望みます。
ですが、秀吉亡き後、権力を握っていた徳川家康の猛反対したんですね。
豊臣家とのつながりが深く、その上、知略に長けて人望の厚い親王を皇位に就ける事は避けたかったのでしょう。
その結果、智仁親王の即位は取り消され、後水尾院天皇に皇位は継承されることになったのです。
日本建築のシンボル
幕府側に翻弄される智仁親王でしたが、皇位に就くことを親王はべつに望んでいなかったのかも知れません。
親王は学問文芸の世界に深く傾倒し、和歌や連歌・書・香・茶などの諸道にも、非常に造詣が深い人物でした。
その才能を発揮させるには、桂離宮のような場所が必要だったのでしょう。
そして、その思いが親王に桂離宮の基礎を造らせることになり、それは息子の智忠(ともただ)親王に引き継がれたのです。
この完成した桂御所は、日本建築のシンボル、極致であると語りつがれています。