修学院離宮   自然豊かな帝王の山荘  

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後水尾院によって江戸時代初期の1655年頃から着手された修学院離宮は、足かけ20年を費やして作られました。かなり規模が大きなこの庭園は、上・中・下の各山荘によって構成されています。そして、各山荘は田園の中を道でつないであります。

あくまでも後水尾院のために作られた山荘ですので、公開されることを予定していたわけではありません。だから、広く、のびのびとした田園の風景の中に各建物が優雅に建ち並んでいるんですね。京都のわび・さびのある、こじんまりとした庭の鑑賞に少し飽きた人には、心を思いっきり開放させてくれる場所だといえるのではないでしょうか。

京都では後水尾院にゆかりの多い寺社仏閣が非常に多く存在します。徳川幕府が朝幕関係を緊張させ対立していたことはよく知られていますが、その原因には3つの事件が大きく関与しているといわれています。

まず、秀忠が娘である和子を強引に入内させて、後水尾天皇の中宮にしたこと。つぎに、在位15年目、まだ天皇31才なのに退位を進めるかのように、隠居所の仙洞御所の施工を幕府がはじめたこと。さらに、天皇の僧位許可権に幕府が干渉した紫衣勅許事件。この3つの事件が大きな要因なのです。

そして、紫衣勅許事件のあとに後水尾天皇は退位されています。よく書にされたのは「忍」という文字でした。

この頃の徳川幕府は、その政権を確固としたものとするために、さまざまな政策を強引に次から次へとうちだしていました。後水尾院がこのような幕府確立期に即位されていたことも、時期がよくなかったのかもしれません。

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後水尾院の怒りの鬱憤を慰める為に、徳川幕府が修学院離宮造営の金銭的援助を行ったという説がよく論じられています。ですが、後水尾院が離宮の造営をはじめたのは1655年の61才になられた時です。紫衣勅許事件からすでに26年もたっているんですね。後水尾院を慰めるためというなら時間がたちすぎているのではないでしょうか。

おそらく、61才という年齢になられた後水尾院は、徳川氏への抵抗や嫌悪感も忘れられ、自然を楽しまれる境地にいたられたのでしょう。そう感じるさせてくれるぐらい、この山荘は明朗奔放で開放的な自然豊かな場所なのです。