北野天満宮   菅原道真公と参道にすわりこんだ十体の牛

 

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参道にいる撫で牛は座り込んでいる

古来より日本の神社は、巨木の繁るうっそうとした森に囲まれた場所にあったので、必ず神の使いの動物がいました。これは日本の「神道」の原型のひとつといわれています。

北野天満宮では牛の信仰があり、そこから派生して撫で牛が生まれ、参道には対になっている二対四体を含めて大小十体の牛像が置いてあります。

そしてこれらのすべての牛たちは、身体を本堂の方に向けて座り込んで臥しているのです。

神社の狛犬・キツネ・鳩・猿などの石像は立っているか、いつでも動きだせる姿で座っているのが通常の姿で、身体の向きも参拝者の方を向いています。

ですが北野天満宮の牛たちは本堂の方を向いて座り込んでいる。そう、臥しているのには隠された理由があるんですね。

北野天満宮の主祭神は菅原道真公(菅公)ですが、始まりは菅公の怨霊を鎮魂するために造られた神社です。

怨霊というのは祀られることで御霊に変わり、逆に、人々を守ってくれる存在になるのです。

牛たちが臥しているのは、牛たちが動き出すと菅公の御霊も共に動きだしかねないため、「鎮座していてください。決して怨霊に戻らないで」という人々の祈りが込められているんですね。

さらに念を入れて、菅公が怨霊に戻り、牛の尻をたたき動かそうとしないように、菅公の方に頭を向けて配置されているのです。

平安京を襲った菅公の怨霊

幼時から学才を発揮し順調に出世した菅公は、33歳で文章博士となり宇多天皇に寵愛されて、昌泰2(899)年には従二位右大臣になります。

これは学者の家柄としては異例の出世であったため、恨み妬まれることになり、反勢力側の左大臣・藤原時平による誹謗中傷や讒言によって陥れられてしまい、菅公は太宰府に配流されました。

そして流されて2年後に失意の中、死去してしまうのです。

彼がこの世を去ったあと、しばらくして、都では天地異変や疫病等が相次いで起こりました。

菅公を苦しめた時平と、その周りの公卿たちも次々と死んでいき、追い打ちをかけるように清涼殿に雷が落ち、その3か月後には醍醐天皇も亡くなってしまうのです。

都の人々は、これらを菅公の怨霊の復讐と恐れました。

事態を収束させるため、時平の弟である藤原忠平は、菅公の怨霊を北野の地に祀ります。

怨霊のタタリによって没落した兄とは逆に、怨霊を祀ることによって御霊とし、藤原家の守護神にしてしまったのです。

これにより藤原家は安泰となり、忠平の子孫は繁栄することになるんですね。 

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菅公の神使いはなぜ牛だったのか

天満宮の祭神である菅公の神使いとして、なぜ牛が選ばれたか? については様々な説があります。

その中でも一番信じてみたいという説は、やはり菅公の危機を白牛が救ったという伝説ではないでしょうか。それは、こういう話です。

 

ある日、菅公が北山でキノコ狩りの宴を催した時に、どこからかともなく小牛が宴席近くに寄ってきて、頭を垂れて、いかにも菅公を慕う様子だったといいます。

菅公は大変喜んで小牛を館に連れて帰り、可愛がり共に暮らしました。ですが、しばらくして小牛は突然姿を消してしまったんですね。

時は流れて、菅公は太宰府に配流される時、大坂の道明寺にいる叔母に別れを告げに向かっていました。

その道の途中、時平の命を受けた刺客が後を追って来て、突然に斬りかかってきたのです。

ところが、まさにその時、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出し、刺客の腹を突き刺しました。

間一髪で助かった菅公がよく見ると、立派に育った、北山で出会い、共に暮らしたあの時の牛だったのです。