桃山文化の華を伝える「ねねの寺」
高台寺は、豊臣秀吉の正室・北政所ねねが、秀吉の菩提を弔うために慶弔11(1606)年に建立しました。
東山のなだらかな山すそにあり、春はしだれ桜、秋には萩の花が咲く桃山文化の貴重な遺構のお寺です。
伏見城から移築された建物や書院や庫裏などが新しく建てられ、ねねが、終の棲家として77歳でこの世を去るまで過ごした場所なんですね。
寛政元(1789)年以降はたびたび火災に逢ったため、建物の多くを失いましたが、表門・開山堂・霊屋(おたまや)・観月台・傘亭・時雨亭は残り重要文化財に指定されています。
そして、高台寺蒔絵として有名な黒漆塗りの蒔絵は、霊屋の厨子などに装飾されています。
時雨亭から眺めた大坂城の落城
境内の東のほうへ急な坂道をあがると、林の中にふたつの茶室が見えます。
伏見城から移築された利休好みといわれる傘亭と時雨亭です。
傘亭と名付けられたのは、竹を放射状に組んだ屋根がまるで開いた傘の内部のように見えることからきています。
また、時雨亭は茶室では珍しい二階建ての構造になっています。
高台寺のガイドさんの説明によると、時雨亭は高台寺の境内でいちばん高い場所にあり、二階からは京都の街をパノラマのように見渡すことが出来るそうです。
大坂夏の陣のとき、ねねは、時雨亭の二階にあがり大坂のほうをながめていたといいます。
そして西の彼方の空が赤く染まったのを見て、ついに大坂城が炎上して落城したことを知り、涙ぐんでいたそうです。
ねねという人
14歳の時に小者頭だった秀吉の妻になりましたが、土間に藁を敷きその上に薄縁をのべて祝言をあげたそうです。
とても明るい性格の女性であり、周囲の人々から愛されたといわれています。
庶民的で気取らず、秀吉が出世してからも、尾張弁丸出しで派手に夫婦喧嘩もしたそうです。
徳川家康からも好意をよせられていて、よき相談相手となっていたようです。
加藤清正・福島正則あど、秀吉恩顧の武将たちが家康に味方したのは、ねねの存在が大きく影響したことによるものなんですね。