二条城  障壁画の楽しみかた 狩野派という絵師集団

 

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慶長8(1603)年、 徳川幕府が朝廷や豊臣方との関係において、重要な役目を果たすための政治拠点として、家康の命により二条城は築城されました。

その後、秀忠と家光・親子によって後水尾天皇の行幸をむかえる為に、寛永3(1624)年に全面的な改修が行われました。その時に行幸御殿、本丸御殿、二の丸御殿がつくられ、現存するのが二の丸御殿です。

この武家風書院造りの見どころは、なんといっても豪華絢爛な障壁画でしょう。狩野派一門による一大プロジェクトですが、二の丸御殿の障壁画を楽しむためには、この狩野派という絵師集団について知っておくと、より興味を持って鑑賞できるのではないでしょうか。


狩野派の中の3人の天才絵師

室町時代後期に幕府御用絵師となったのが、狩野派初代の狩野正信(まさのぶ)です。ここからはじまり幕末まで、画業の家としての名声を後世にのこします。
その長い歴史の中に3人の天才絵師がいました、元信(もとのぶ)、永徳(えいとく)、探幽(たんゆう)です。

永徳は元信の孫であり、探幽は永徳の孫です、つまり室町時代から江戸時代まで一代おきに天才絵師を輩出しています。その他の狩野派の絵師も一定のレベルの腕は持っていましたが、時代を切りひらいていけるほどの存在ではありませんでした。

そして、二条城の障壁画を描いたのは、探幽をリーダーとする江戸初期のチームです。11人で分担していますが、中心となったのは、探幽と弟の尚信です。剛の探幽、柔の尚信と呼ばれ2人の絶妙なコンビネーションの仕事を中心に二条城の襖絵は描かれています。

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二の丸御殿の各部屋の特色

二の丸御殿は奥に進むほどプライベートな部屋に変わっていく構造になっています。一番手前が遠侍(とおざむらい)の間、諸大名が将軍との対面を待たされる場所です。ここに描かれているのは虎や豹で威嚇的な感じがただよっています。

そして次が式台の間、諸大名が老中と対面し進上物を献上する部屋で、老松が太く大きく威圧感たっぷりに描かれています。その先の大広間には、いかめかしく巨大な松と、目を光らせて睨みつける鷹が描かれていて、まだまだ緊迫した雰囲気を表現しています。この二つの部屋を描いたのが探幽です。

その先の黒書院にすすむと、描かれている絵は一変します。黒書院は桜や菊の花、牡丹の花が咲き乱れているさまが描かれている、身内に近い譜代や親藩大名のみが入る部屋です。この部屋を描いたのは尚信です。尚信は繊細な美意識を持っていて、花鳥の絵を非常に得意としていました。これが、剛の探幽と柔の尚信と呼ばれた理由です。

探幽と尚信兄弟は二の丸御殿の各部屋を、幕府の意を的確に把握し花や樹、鳥や獣の絵画で空間プロデュースをおこないました。このような二人の才能は幕府の役人たちに高く評価され、絵師の家の栄誉を獲得していたのです。

 

二の丸御殿は、武士がそこに寝泊まりしたという部屋が、そのまま残っているという貴重な城です。天守閣ではなく、住居として残されているのはここだけなんですね。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、信長、秀吉、家康によって大きな城が次々と建てられました。安土城、伏見城、豊臣大坂城、江戸城、名古屋城、長い月日を経て、創建当時の姿のまま残っている城はありません。
その中で唯一、二の丸御殿だけが、風雪に耐えてよく生き残ってきたと言えるのではないでしょうか。