寺院
日本美術を守ったフェノロサ 明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる奈良・京都では多くの仏像や仏画が犠牲となっています。 当時、奈良・京都を頻繁に訪れていた東京大学教授のアーネスト・フェノロサは、この現状に強い危機感を抱いていました。 というのも、…
桜舞い散るその下で 慶長3(1598)年、豊臣秀吉によって名刹・醍醐寺で開かれた「醍醐の花見」。 それは、日本国はじまって以来の華麗極まる壮大なイベントでした。 豊臣ファミリーと側近武将たち、そして、1300人の秀吉の後宮の女性たちが招待され…
戦前の日本において、楠木正成と共に、二代忠臣と呼ばれたのが和気清麻呂(わけのきよまろ)です。 楠木正成は、南朝を守るために武人として壮絶な最期を遂げましたが、清麻呂は、王朝の万世一系という神勅を命懸けで守った官人でした。 女帝と怪僧 神護景雲…
そして本堂だけが残った 有名な観光寺院では、本堂、山門、講堂、塔というように、昔からの伽藍群のそのまま全てが揃って残されています。 ですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているというケースがじつは多いのです。 そして、その残され…
酒の席での戯言 平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。 大勢の公卿を自宅に招いた宴の席で「私は欠けることのない満月だ。この世界は私のためにある」という趣旨の和歌を詠み、その場を凍りつかせました。 その慢心に聞こえる自画自賛は「酒の席での戯言…
藤原北家の摂関独占 平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。 かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。 院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900…
福運の姫君 徳川二代将軍・秀忠の五女である和子が後水尾天皇に入内したことで、度々起こっていた公武関係の危機は、次第に回避されていくようになりました。 まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった和子は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしてい…
春の陽が地上に降りそそぐ穏やかな日、出陣する織田信長軍の傍らの畑で、農民がスヤスヤと居眠りをしていました。 これを見た、信長の顔色をうかがう木下秀吉は、「こいつらのために合戦にいくのに」と激怒し、眠っている農民に斬りかかろうとします。 です…
真理だけを突き詰める 22の塔頭寺院とふたつの別院で構成される、広大な境内を持つ大徳寺。 臨済宗大徳寺派の大本山として、禅の道場の使命を果たし続けてきました。 風情ただよう石畳の通路、新緑と花々に彩られた聖空間の古刹。 千利休をはじめ多くの茶…
イメージされる無限の観音像 三十三間堂 文永3(1266)年の再建から750年、その姿を保ち続ける奇跡の宗教建築。 お堂に安置された千手観音によって、蓮華王院・三十三間堂は守られ続けてきたのです。 中央に鎮座する丈六の千十観音座像を本尊とし、…
御池と御室 代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。 神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。 寺であると同時に、宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社…
750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そし…
建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によ…
鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の寄進によって建立された建仁寺。 武家の強力なバックアップを受けて、14世紀には、京五山第三位の臨済宗・名刹となりました。 現在では、禅寺にしては珍しく格式ばらない寺院として、境内のある祇園・花街の人々にも親しま…
豊臣家により創建され徳川家によって再建された寺 文禄3(1594)年に豊臣秀吉の側室・淀の願いによって、彼女の父である浅井長政と祖父・久政の追悼の寺として養源院は建てられました。 戦国期の北近江の大名であった浅井長政は、妻・お市の兄にあたる…
消えた京都の古き由緒ある寺院 草庵から出発した小さな寺院が伽藍寺院に発展すると、いちばん必要とされるのが建築費用でした。 大規模になればなるほど、宗派を問わず、お布施の集積だけではまかないきれなくなります。 最初の出費の大部分を援助してくれる…
悪国師の名を受けて 徳川家康には、極めて優秀で才覚に長けた徳川幕府三百年の治世の基盤を築き上げたブレーンが二人いました。 一人は、民衆に絶大な人気のあった天台宗の傑僧・南光坊天海。 そして、もう一人は「悪国師」と呼ばれ、人々を苦しませる悪役の…
舟を浮かべて盛大な宴 金閣といえば派手で強烈な光を放っているイメージがありますが、実際に境内へ足を踏み入れて眺めてみると、優しく気品ある光に包まれています。 また、季節や天候によって様々な美しい姿を魅せてくれるのですが、晴れた日よりも少し曇…
征夷大将軍・坂上田村麻呂 清水寺が国から公認されたのは、805年のことです。 できたばかりの平安京では、寺院の新設・奈良からの移転は禁じられていましたので、国家公認の東寺・西寺以外の寺院は存在していませんでした。 清水寺だけが例外的に、特別に…
臨済宗を中心とした禅宗は、宋・元の美術や喫茶などの最新の中国文化と共に、鎌倉時代から南北朝時代にかけて日本へ伝わりました。 そこから江戸時代まで、禅院で花開いた禅宗美術は、いまも名刹の特別公開などで展示され、訪れる人々を魅了してやみません。…
洛中に今も伝わる逸話 室町時代に創建された本法寺。 その京都市民たちが誇る名刹は、さまざまな法難に遭いながらも正面から立ち向かい、ねばり強く布教を続けた日蓮宗の本山です。 一方で、京都・洛中には、本法寺に因んだ今も伝わるこんな美しき逸話も遺さ…
かよい慣れた道、いつもよりゆっくりと歩く夕暮れの錦通り。 新型コロナのはやりで、本当に人がいないので、なんだか違う景色に見えます。 ここは、普段ならインバウンドの人々で溢れるグルメロードと呼ばれる有名な市場。いまは、人影もまばらです。 その為…
宗派を超えた国家的建築物 応永6(1399)年、それまで誰ひとり見たことのない高塔が、京都洛中の北の地に出現しました。その高さは三百六十尺、足利三代将軍・義満が竣工させた相國寺・七重大塔です。 百メートルを優に超すこの塔は、義満が宗派を超え…
応仁の乱からの復興 京都の街を焼き尽くした応仁の乱。絶望的状況がなんとか収束に向かったとき復興に尽力したのは、町衆と呼ばれる富裕層の商売人たちでした。 その大半の人たちは法華宗門徒だったので、法華宗の信仰は京都の中心部に浸透します。 「題目の…
池田輝政の妹 妙心寺の塔頭のひとつである天球院が建立されたのは、寛永8(1631)年のことでした。 姫路城主の戦国武将・池田輝政の妹の天球院という院号から天球院という名は名付けられているんですね。 因幡若狭城主に嫁いだ彼女は、離縁し池田家に戻…
杮葺きの本堂の天授庵は、南禅寺の巨大な三門のすぐ傍にただずんでいます。 池縁を深紅の紅葉が包み込む池泉回遊式庭園、さらに本堂の前庭には、広がる枯山水庭園があり、ふたつの趣を感じることの出来る景観は、訪れる人々を魅了してやみません。 徳川家が…
ビューポイントの門前 今ではすっかり紅葉の名所となった洛北の曼殊院ですが、15年ほど前までは、訪れる人もそんなに多くなかったようです。 樹々にふちどられた緩やかな坂道をまっすぐに上がっていくと、勅使門と淡青色の漆喰塀が見えてきます。 燃えるよ…
一度は訪れたい国宝の客殿 東寺の子院を代表する存在であり、教学研究で優秀な学僧を多く輩出した観智院。 延文4(1359)年に後宇多天皇の遺志によって創建されました。 その後、徳川家康によって真言一宗の勧学院と定められます。 慶長10(1605…
聖徳太子と小野妹子 ゆかりの古刹 洛中から十数キロ離れた大原の里にたたずむ寂光院。 聖徳太子が自ら造った地蔵菩薩像を安置して、父・用明天皇の菩提を弔うために開創しました。 大原には太子が創った寺院が数多く有り、実光院の地蔵菩薩や通称蛇寺の阿弥…
嵐山の麓にある紅葉の名所 朱色に燃える楓に包まれた獅子吼の庭。寛正2(1461)年に創建された宝厳院は、嵐山・天龍寺の塔頭寺院です。 江戸時代に京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」にも紹介されている(獅子吼の庭)。ここは、嵐山の借景を…