好きな俳優の声も聴きたいので洋画を字幕版でしか見ないという友人は、画面、字幕、画面と、目で追うのが忙しくて、といいます。
私はもっぱら、配信コンテンツでアメリカ映画を見るときは日本語の吹替え版。
最近の吹替は細部にわたりズレが調整されているので、デンゼル・ワシントンなんかが本当に日本語で話しているようで全く違和感を感じさせません。
昔のブルース・リー映画の吹替版なんかを見ていると、決めセリフはもう言い終わっているのに、口だけが動いていたりしていました(笑)
そして、注意深く聞いていると、邦画とは違って、洋画の場合は連体修飾節で語られるセリフが頻繁に出てくるのに気づかされます。
連体修飾節は翻訳調の日本語と例えられるぐらいですから、翻訳する人が日本語に差し替えやすいのかもしれません。
「それはそうと、スミスよ、CIAが購入した海に入るときは潜水艇としても移動できるという例の高性能ジェット機のことなのだが・・」
と、けっこうな速さで主人公がまくしたてるので、ある程度の集中力をもって耳を傾けなければなりません。
こういうセリフが劇中に何度か続くと、途中でボンヤリしてしまったり、テーブルの汚れが気になったりすると、ストーリーが追えなくなってしまうんですね。
連体修飾節の言葉を耳で追っているときに瞬間的に意識が途切れてしまったら、ストーリーの細部内容があとで理解不能になってしまうんです。
たとえば、そこに物語の伏線が張られていたりすることも少なくありません。
ただ、私達が日本語で会話するときには、あまり長い連体修飾語を使うことはないような気がします。
逆に言えば、文章を書くときはある程度の長さの連体修飾を使うことで読み手の注意をひくことができるはずです。
だから私は、そこに、話し言葉と書き言葉の違いを理論づけるコツがあるような気がしてならないんですね。

現地情報によれば
現地からの情報によれば
現地から入った情報によれば
現地から入りました情報によれば
述定的装定という現象によって、「情報」の情報は詳しく述べられ、膨らんでいくことになります。
この「情報」という名詞は「底の名詞」「主名詞」と呼ばれているのですが、「こと」「もの」「とき」といった形式名詞などによって形式化されていけばいくほど、重みは動詞の方へと移っていくんです。
通路に立った時、私はギョッとして目をすえた。
近所の立ち飲み屋に出かけることにした。
まだまだ彼女は引退したわけではなかったのね。
メールでなければ言いにくいこともあるもの(ん)です。
再び元の世界に戻るために、決して、この秘密をあなたに教えたりはしない。
もはや述定が進みすぎて「底の名詞」は形式的なモノにすぎなくなり、ふたつの動詞文をスムーズに繋げる役割のみが残ることになります。
ただ、「立った」「出かける」という動詞は、ただ動きを説明しているのではなく、「立った時」「出かけること」と名詞化することで、「取り立て提示」して強調しているという点は見逃してはなりません。
そうでないと、形式名詞でつなぐ必要性がなくなるからです。
上の例文を、下線を引いた形式名詞だけ強く発音して音読してみると分かりやすいと思います。
そして巧みな連体修飾節を使った複文は、時に、このような名文を世に残してくれます。
遠い席にボーイが音を立てて茶を入れている間、総理は通訳に言葉を待たせていた。(門田 勲 「北京通信」)
この1行の文をはじめて読んだとき、ホテルロビーの広さと静寂さを肌で感じ取れるような文だと感じたんですね。
「遠い席に」という修飾語がなければ、茶を入れる音がうるさくて総理が言葉を止めているように取れてしまいますが、そうではないんですね。総理は文字通り「間」を、とっているんです。