京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

永観堂 みかえり阿弥陀 人はみな弱虫を背負っている

山崖にはりついた堂宇

およそ1000年前から、山寺らしい雄大な紅葉が見どころの永観堂。

正しくは禅林寺という浄土宗・西山禅林寺派の総本山です。

寺域の楓は3千本を超えていて、季節になると境内が真紅の色で染めつくされます。

そして、山の斜面に寄りそうように堂宇が建ち並んでいるのですが、これが、東山連峰の山腹にそびえる永観堂ならではの特有の建築構造だといえるんですね。

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その全貌は、大玄関から諸堂内を拝観するときに特徴が見られ、構造がよくわかるようになっています。

御影堂から先の階段をのぼるときに始めて、建物が山崖にピッタリと張りついていることに気づかされるんですね。

そんな建築構造だからでしょうか、境内のどこに居ても、まさに肌に柔らかく覆いかぶさるように紅葉を全身に感じられるのです。

ご本尊「みかえり阿弥陀」

永保2(1082)年、凍てついた2月の早朝、禅林寺七世住持の永観(えいかん)が念仏をとなえながら堂内を回る厳しい行をしていると、本尊とした阿弥陀如来が須弥壇を下りて来られました。

そして、永観の先に立って導くかのように一緒に歩き出されたのです。

永観が驚いて立ち止まり呆然としていると、阿弥陀さまがふり返って「永観、遅し」と声をかけられました。

「永観、遅し」、つまり「永観遅いじゃないか。どうしたんだい。何か悩んでいるのかい」という意味です。永観はそれを聞いて感激のあまり大粒の涙を流します。

そして、胸に激しいものがこみ上げるのを感じながら合掌して祈ると、阿弥陀如来は、そのふり返った姿のままになりました。

そう、その姿を留めてつくられた像が、この永観堂のご本尊「みかえり阿弥陀」なんですね。

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http://www.eikando.omlr.jp/eikando.ht

そうした古い物語がひきつがれて、実際にうしろをふり返っている仏像の姿で見ると、ほんとうに感慨深いものがあります。

須弥壇の右の側面にまわり像高77センチの阿弥陀像のお顔を見る時、一瞬まぶしい光が差して、おもわず目を細めました。

きっと、永観には手をさしのべる阿弥陀さまの姿がはっきりと見えたのでしょう。

ずば抜けた永観の知能指数

永観は生まれてすぐに、石清水八幡宮の別当の家に養子に出されていました。

8歳の時に、石清水八幡宮の近くの開成寺で「不動明王呪」という秘法を伝授されましたが、一度聞いただけで暗記し、睡眠中にまで暗誦してまわりを驚かせます。

これは、永観の知能指数・IQが170以上あったことを示しているそうです。

IQが170以上ある人は、書物などは一度読んだだけで、全て暗記することが出来るのだといわれています。

やがては法統を継ぐものと期待され、学侶として俊英ぶりを発揮する永観は、期待通りの成績をおさめる逸材でした。

あの左大臣・藤原頼道にも大切にされ、平等院で行われた「番論義」にも学匠として参加するほどだったのです。

失望と自暴自棄の日々から見えたもの

ですが、30歳の頃に持病の高血圧神経痛が悪化して静養せざるを得なくなりました。

平穏な日々が続いていたなら、僧としてさらに修業を積みエリートコースを進むはずだったのに、いきなり輝かしい未来が閉ざされて失望と絶望に襲われ、永観は自暴自棄になります。

そして体調が完全に回復するまでに8年の歳月を費やしました。

でも、それは決して彼にとって無駄な日々ではなかったのです。

永観は、この後の人生で折に触れて「病はこれ真の善知識なり」と口にしていました。

病におかされ一心に悩み苦しんだからこそ、見えてきたものがある。

病こそ仏教修行を深めるきっかけとなった善知識だという意味なのでした。

40歳で禅林寺にもどってきた永観は、この苦しみの経験をバネに歴史にのこる「往生講式」を完成させます。

往生講は阿弥陀講ともよばれ、阿弥陀如来の功徳について説かれた経文を講讃する法会です。

浄土教の寺院では盛んに往生講が行われていましたが、講のやりかたについては、てんでんばらばらだったらしいのです。

永観が「往生講式」という「型」を完成させ、それを正確にあらわしてどの寺でも講が行えるようにしたんですね。

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いつしか永観堂と呼ばれるように

65歳のときには、寺内に病人用の浴室である温室をもうけたり、境内で収穫した梅の実を体の弱った人に与えたりしました。

これは、悲田梅とよばれ、同時に施粥や施薬も懸命に行われます。

病におかされ深い悲しみに襲われた人々に手をさしのべること、それだけを永観は考えていました。

こうした彼の活動は京都の人々に熱烈に支持されます。

そして禅林寺は、いつしか永観堂と呼ばれるようになりました。

人はみんな弱虫を背負っています。一歩、外に出れば、街を歩いている人や周りにいる人達の中に、大変な事情を抱えている人がいるかもしれないことを、たぶん忘れてはならないのでしょう。